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村治佳織が奏でるドイツ・ロマン派の夕べ@麻生市民館大ホール

 上司に誘われて、村治佳織のコンサートを聴きに行きました。とても有名なクラシック・ギター奏者なので存在はもちろん知っていましたが、聴くのがこれが初めて(CDも聴いたことがなかった)。でも、素晴らしい内容でした。お姿も大変お美しくてですね(写真よりステージに立っている姿のほうがキレイ! これはすごいことですよ)、すっかりファンになって帰ってきましたよ。  そもそも、私はクラシック・ギターのコンサートに行くこと自体初めての経験。最初「やっぱりギターって音量が小さい楽器なんだなぁ」と思ったのですが、二曲目からは耳のほうがギターの音量に慣れてくる。そうなってくると非常に繊細で、親密な音楽のように聴こえてきて「これもなかなか良いもんだなぁ……」と感じました。“初めての人”が村治佳織で良かったのかもしれません(ハァハァ)。  コンサートは前半と後半で二部に別れていて、前半は村治佳織のソロ、後半はヤン・コボウというドイツ人のテノール歌手との競演でシューベルトの歌曲を、という構成。とくに後半が素晴らしかったです。後半は完全にヤン・コボウが主役という感じだったのですが、この歌手がとても素晴らしかった。とくに≪美しき水車小屋の娘≫は絶品で、言葉はもちろん分からないのだけれども、雰囲気だけでガンガンに心の柔らかい部分を突いてくるような表現に、何度も目頭が熱くさせられました。声質も瑞々しくて、ホントに良かったです。ドイツ歌曲を聴くのも久しぶりでしたが、聴いていてすごく心が温かくなる。コンサートでこんなに「ああ、温かい気持ちになるなぁ」という風になったのは、ずいぶん久しぶりかもしれません。  最後にもう一度、村治佳織、めちゃくちゃキレイでした……。 Schubert: Die schöne Müllerin posted with amazlet at 09.10.02 Atma Classique (2005-03-01) 売り上げランキング: 220317 Amazon.co.jp で詳細を見る ポートレイツ(限定盤)(DVD付) posted with amazlet at 09.10.02 村治佳織 ユニバーサル ミュージック クラシック (2009-10-07) 売り上げランキング: 28 Amazon.co.jp で詳細を見る

ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #5

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 posted with amazlet at 09.09.01 ユルゲン ハーバーマス 未来社 売り上げランキング: 50630 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は第五章「公共性の社会的構造変化」について。後半戦の始まりでございますが、いきなりネガティヴな情報からいきますと、この本正直言って中盤から後半が結構読んでいてつまららない。『公共性の構造転換』といえば「コーヒー・ショップで……」云々といった第二章でのお話ばかりが引き合いに出されている、という印象がありますが、それも確かに頷けるところです。といいつつも、言っている内容については、そこまでつまらないというわけではありません。抽象的な話が続くので退屈なのですが、そこそこ面白いですよ。余談はこれぐらいにして第一六節「公共圏と私的領域との交錯傾向」に入っていきましょう。  何度か繰り返しておりますが、この論文を大変親切設計な感じで書いたハーバーマス。彼は、この節のはじめでこれまで分析されてきた市民的公共圏の変容について整理しています。うーん、マメですねえ。っていうか、前の章があんまり上手くまとまっていない感じがするので、必然だったのかもしれませんが。ここではハーバーマスによる整理を、もっとザックリやっちゃいましょう。まず、市民的公共性が公権力から離れ、自律的な「社会」を作る。このとき、国家という公権力は、社会の基盤にそびえ立つものにすぎません。言うなれば、小さな政府って感じなんですかね。これは第三章に対応しましょうか。しかし、一九世紀後半になるとだんだんと公権力がまた力を強くしていく。それどころか、今度は市民的公共性事態が公権力のような「権威」を帯び始めていくのでした。これは第四章でなされたお話です。そして、このとき、この節のタイトルである「公共圏と私的領域との交錯傾向」という現象をハーバーマスは認めるのでした。 ……民間人の交渉過程に公権力がおこなう干渉は、間接には民間人自身の生活圏から発する衝迫を媒介するものなのである。干渉主義というものは、民間圏内だけではもう決着しきれなくなった利害衝突を政治の場面へ移し変えることから生ずる。(P.198)  で、この例としてハーバーマスは、一八七三年にはじまる大不況 *1 以来、自由貿易から保護貿...

ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #4

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 posted with amazlet at 09.09.01 ユルゲン ハーバーマス 未来社 売り上げランキング: 50630 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は第四章「市民的公共性 イデーとイデオロギー」について見てまいりましょう。この章は社会史の分析よりかは、思想史の分析に比重が置かれておりますので、これまでよりも若干堅苦しい感じがしますが(読んでいても読んだことのない哲学者の名前がいっぱい出てきて、ちょっとキツい……)お付き合いくださいませ。とりあえず、章のはじまりである第十二節に「この章ではこういう話をしますよ」というアナウンスがありますのでまるごと引用しておきます。 市民的公共性の機能の自己理解は、「公論」という論題の中で結晶した。もとより、これが一八世紀後期に明確な意義をうるまでにたどったその前史は長く、今までのところその大筋が見通せるにすぎない。それでもわれわれはこの前史を市民的公共性の理念への導入として扱い(第一二節)、この理念がカントの法理論において古典的に表明された(第一三節)後で、ヘーゲルとマルクスによってその問題性が追及され(第一四節)、そして一九世紀中頃の自由主義の政治理論においてイデーとイデオロギーの相反並存を告白せざるをえなくなる経緯(第一六節 *1 )を述べることにする。(P.128)  それでは第一二節に入りますが、この節は「公論(public opinion――opinion publique――〓ffentliche Meinung) 論点の前史」というタイトルがついています。ここで分析の俎上にあがっているのは、タイトルにある「公論」という言葉の意味の(英独仏における)変遷です。ハーバーマスは今日「opinion」という言葉が、単に個人的な「意見」を示す言葉ではなく、社会的な性格を持っていることを確認しています。「しかたがってその社会的性格を示唆するすべての修飾語は、冗語として割愛できるほどである(P.129)」。しかし、もちろんそのような意味が簡単に成立したわけではないのですね。イギリスでは、ホッブズ → ロックという流れよって、重要な意味の分離が生まれ……みたいな話が書かれておりますが、このあたりの細かいことは第一二節を実際にお読みください。大...

菊地成孔 大谷能生『アフロ・ディズニー――エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』

アフロ・ディズニー posted with amazlet at 09.09.28 菊地 成孔・大谷 能生 文藝春秋 売り上げランキング: 1444 Amazon.co.jp で詳細を見る  菊地&大谷名義による前著『M/D』は読んでいませんが *1 、こちらの新刊『アフロ・ディズニー』はなかなか興味深く読みました。しかし、発売から一ヶ月ほど経過したというのに本の感想なり、評判なりというものを一切目にしないのはどういうことでしょうか。菊地成孔って「今をときめく話題のアーティスト」じゃなかったのか? とはいえ、なんとなくその理由も推察できようというものです。というのも、慶応大学で行われた講義を元にした講義録、という形は、数年前にかなり売れたらしい『東京大学のアルバート・アイラー』と同じですが、『アフロ・ディズニー』では『東大アイラー』で見られたようなギャグ/脱線要素は一切カット。ホンモノの学術的講義録のような文体は、一般的な読者層 *2 から遠ざけられるのもモットモも言った感じであります。笑える要素はかろうじて、著者二人による後書のみ! というちょっとハードコアな内容。  しかしながら、この本で語られているいくつかのトピックは、音楽批評、あるいは映画批評に興味を持つ人であれば、必見のものであると思います。それらがあまりに多岐に渡っているため、すべてをフォローしているとは言えませんが、個人的に強く興味をもったモノをいくつかあげておくならば「視覚と聴覚との分断」、「二〇世紀カルチャーの幼児性」がありました *3 。精神分析のジャーゴンを用いて、分析をおこなっていく講義は、胡散臭さをプンプン撒き散らしながら「これまで誰も注目してこなかったトピックを掘り出して見せた」という点だけでも評価に値しましょう。 グラスがテーブルから落ちて割れる、ということが目の前で起こった際、もしそれから音が聞こえなかったとしたら、われわれはほとんど白昼夢を見ているかのように思うでしょう。そこでクラッシュ音を脳内で充当させ、それで納得する。ということは、おそらくしないと思います。逆に、ある衝撃音が聴こえ、しかしその原因が視覚的に見えなかった場合、われわれはすぐにそれがどのような原因に結びついているのかを探し、見えなかったその運動を想像力でもって補完して、自身を納得させます。(P.115) ...

シベリウスの交響曲第6番

シベリウス:交響曲第6番&7番、タピオラ posted with amazlet at 09.09.28 オラモ(サカリ) ワーナーミュージック・ジャパン (2003-10-16) 売り上げランキング: 94681 Amazon.co.jp で詳細を見る  先日の『N響アワー』 *1 で放送されていたのを聴いて「これは……なんだか素晴らしい作品ではないか!」と思ったのが、フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスの交響曲第6番でした。  マーラーやブルックナー以上にハードコアなファンが多いこの作曲家のファンは口々に「シベリウスは後期が断然に素晴らしい」と言っているのが、完全に理解できた気がします。触れた途端に崩れ落ちてしまいそうなほど繊細な美しさをもつ第一楽章冒頭からして、気持ちがどこかに持っていかれてしまいます。  いきなりクライマックス直前のような緊張感が呈示されますが、この緊張感はなかなか最高地点まで達することなく、じわじわと適度な快感ポイントを漂います。いつ、絶頂はやってくるのか……!と期待が持続するのですが、いつのまにか次の楽想に移ってしまう。  つづく、第二楽章も似たような感じで進行していきます。音楽は徐々に高まっていくのですが、劇的な絶頂感は訪れることがない。独特な構成に魅了されると、シベリウスの音楽に病みつきになっていくのでしょう。しかし、これは「どこで終わった/終わるのか分からない」という分かりにくさを生むものでもあります。  第三楽章にきて、ドイツ音楽のような劇的な絶頂が訪れる感じでしょうか。「ズズッ、ズズッ」と刻まれるリズムが楽章全体を支配しているのですが、時折、金管楽器が長いクレッシェンドで入ってきて、最後にフォルテッシモで〆るところを聴くと「ああ、シベリウスの音楽ってこんな感じだよなぁ」と思います。  第四楽章。この美しい作品が発表されたのは1923年、時代区分的にはこれもバリバリの「20世紀音楽」なのですね。パリやヴィーンといった音楽文化の中心地では、とっくに無調や≪春の祭典≫スキャンダルが起こっており、前衛がバリバリと活躍していた頃に書かれている。それを考えれば、シベリウスがこのような調性作品を書いたことは「時代遅れ」だったかもしれません。  しかし、シベリウスも時代の流れとは無関係に作曲活動をおこなっていたわけではあり...

クリント・イーストウッド監督作品『グラン・トリノ』(再見)

グラン・トリノ [DVD] posted with amazlet at 09.09.28 ワーナー・ホーム・ビデオ (2009-09-16) 売り上げランキング: 114 Amazon.co.jp で詳細を見る  クリント・イーストウッドの最新作をDVDで観なおしました。劇場で観たときにうっかり見逃していた発見がいろいろあって面白かったです。たとえば、イーストウッドが真っ暗な部屋でひとり、一粒の涙を流すシーンとか(画面が暗すぎて気がつかなかった)。最愛の妻の葬式ですら流さなかった涙があのシーンで流される、というのはちょっと過剰な演出なのかもしれないけれど、やはり胸が熱くなりますね。あそこからイーストウッドは、他者に救済をもたらすための壮絶な受難へと突き進んでいくわけですが、この自己犠牲は晩年のトルストイの思想とも共鳴するかのように思われました。教会で告白を行った後に、イーストウッドが神父に対して「俺の心は安らいでいる」という一言を返すのだけれども、自らが犠牲になるという決意が彼の魂に安息を与えているのだ、と思うと非常に感慨深いものがあります。「恋とは自己犠牲である。これは偶然の依存しない唯一の至福である」(トルストイ)。  モン族の祈祷師から予言めいた言葉を与えられるシーンは、劇場で観たときからすごく気になっています。今になってもうまく言葉に言い表せないのですが、モン族の祈祷師から与えられた言葉が、イーストウッドの胸にビシビシと突き刺さっていくところに、啓示のような効果を感じます。息子であったり、隣人であったり、イーストウッドと関わりを持つ登場人物は、それぞれ多様に彼を理解している。息子であれば「堅物で、愛のない人間」、隣人の少女であれば「堅物だが、正義感に溢れた強い人間」という風に。しかし、あのモン族の祈祷師はまったく違った立ち位置から、イーストウッドへと言葉を授けるのですね。それは言ってみれば、超越的な視点、もう少し言えば、神の視点、ということができましょう。  その前のシーンでは、イーストウッドが読んでいる新聞の占いコーナーに「今日が人生の岐路になるかも」的なことが書かれている。これを彼は「くだらない!」と切り捨てるのですが、これがちゃんと暗示になっている。そして、これがモン族の祈祷師による啓示へと繋がっていくのも素晴らしいのですが、この暗示と啓示がその後...

JIM O’ROURKE/The Visitor

The Visitor posted with amazlet at 09.09.23 Jim O'Rourke Drag City (2009-09-08) 売り上げランキング: 667 Amazon.co.jp で詳細を見る  ジム・オルークの新譜を聴きました。これはなかなかすごいですよ……。聴く前に彼への最近のインタビュー記事 *1 に目を通したのですが、この『The Visitor』という作品は約三年の期間で、完全に自分ひとりで録音したものだそうです。なんというDIY精神! そういえば、谷啓も同じように一人多重録音でビッグバンドのレコードを出していた気がしますが、こういうのって結構やりたがる人がいるんでしょうか……?(かく言う私も、一人多重録音でオーケストラ作品を作りたい、っていう一生かなうはずがない夢を抱く者でありますが)  制作方法だけでなく、内容の方ももちろん素晴らしいのでありました。収録されているのは、一曲四〇分弱というプログレみたいな感じなのですが、静謐な冒頭からシンシンと降り積もる雪のようにゆっくりと盛り上がっていく構成や、ポリリズムの揺らぎが美しい白昼夢でも見るかのような具合なのでした。大変緻密な音楽にも関わらず、とてもリラックスした雰囲気が感じられるのも良いです。また、ここでのジム・オルークのギター・プレイは、ジョン・フェイヒーを思い起こさせるところがありますね。  CDのジャケットには「スピーカーで聴いてください、爆音で(please listen on speakers, loud)」との文言が付記されておりますが、小さい音量で聴いても良い感じです。ヨ・ラ・テンゴの新譜でも思いましたが、こういう隣の部屋に住んでいる人が、趣味で作ったかのような親密な肌触りの音楽って最近は好きです。 *1 : ジム・オルーク インタビュー -インタビュー:CINRA.NET