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伊藤聡『生きる技術は名作に学べ』

生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書) posted with amazlet at 10.02.28 伊藤 聡 ソフトバンククリエイティブ 売り上げランキング: 564 Amazon.co.jp で詳細を見る  『空中キャンプ』の人こと、伊藤聡さん *1 の単著をとても楽しく読む。これはとても素敵な文章が収録されていて、読みながらなんだか数年後に高校入試や大学入試の現代文の問題に採用されてもおかしくないな、というぐらいに深い意味が各所に散りばめられた本だった。仮にこの本から問題が出たら受験生はすごく喜んでしまうと思う――なぜなら、とても読みやすくて、意味もとりやすいから。大澤真幸のようなパースペクティヴから、じわじわと意味が掘り出されていく過程が鮮やかだ。それから宮本さん *2 が描いているイラストにもいろんな意味で驚きました。宮本さん、人間も描けるんですね!(失礼)  私が最も好きなパートはヘッセの『車輪の下』についてのところ。冒頭がいきなり落合博満の話から始まる落差がとてもひきつけられる(スゴい書き出しだ!)のもあるのだが、なにより「こどものときってオトナになってしまってから振り返ると恥ずかしくて、バカなことをやりがちだけど、そう言うのって大事だよね」と認める大らかさを感じるところが心地よいのだ。例えば筆者は『車輪の下』の主人公ハンスの、エンマという女の子にたいする初恋の部分からこんな部分を拾ってくる。 エンマと知りあったハンスが、なにやら内側から自分をつき破るような衝動に駆られ、「今日中にもう一度エンマに会わなくてはいけない」と決意するくだりなど、思春期ならではの性急さに満ちており、ハンスの切実さと自発性が見て取れる、数少ない機会である。  ここで筆者が指摘している「思春期ならではの性急さ」に私はハッとしてしまう。たしかに、オトナになってしまうと、恋愛ごとにしても何にしても「性急さ」を失ってしまう。「今・ここで!」という風に、思いを馳せる女性と話したくなるような機会はどんどん少なくなってしまう。例え夜中にあの人の声が聴きたくなったとしても、お互い明日も会社があるんだし、迷惑になるかもしれないし……と考えると、ビールを2本ぐらい飲んで寝ちゃおうか、という気分にもなる。同時に「今・ここで!」電話をかけたとしても、彼女の気持ちが劇的に理解できたり、...

松平敬/MONO=POLI

MONO=POLI (モノ=ポリ) posted with amazlet at 10.02.28 松平敬 ENZO Recordings (2010-02-20) 売り上げランキング: 9279 Amazon.co.jp で詳細を見る  新譜。(おそらく)日本最強のシュトックハウゼンのスペシャリストであり、近年は高木正勝のライヴにも参加でも注目を浴びている声楽家、松平敬 *1 の初ソロ・アルバムを聴く。これはホントにすごかった。なにしろ、「本当にソロ・アルバム」なのだから。本来バリトンである松平が「バスからソプラノに至る全声部が、私の声の多重録音のみによって演奏されている」というのだから……(女声声部はファルセットを駆使!)。そのうえ、録音後の編集からブックレット作成まで自分でおこなったとあり、もはや大爆笑しながら脱帽するほかない。ポール・マッカートニーやプリンス、トッド・ラングレン、そして谷啓でさえこんなに一人でなんでもやらないし、できないだろう。こうした驚きと同時に、このように一人でアルバムが作れてしまう昨今の音楽環境についても感慨深いものがある。  アルバムには、「カノン」という形式をテーマにして、13世紀から21世紀という700年間におよぶ長いスパンのなかから声楽作品が選ばれ収録されている。松平自身による解説にもあるとおり、その並びはもまたカノンとなっている。13世紀に書かれたという現存する最古のカノンに始まり、中心には松平自身による2009年の作品が置かれ、そこからまた時代を遡っていき、14世紀まで戻っていく反行カノンなのである。Youtubeには、またもや松平自身によって制作されたPVがアップロードされているので是非聴いてほしい(↓)。  最古のカノン《夏は来たりぬ》の聴いていてニコニコしたくなる朗らかさ、リゲティ、ブライアーズ、シェーンベルクのぞっとするような美しさなど非常に多彩である。20世紀の作曲家では、ベリオやケージの声のための作品も愉しい。それにしてもなんと調和が行き届いた素敵なアルバムなのであろうか。同一人物の声が重ねられているから「当たり前」なのかもしれないが、改めて考えてみるとこれは驚異的なことである。たくさんの人に聴いてもらいたい、と強く願った。 *1 : 松平 敬 ウェブサイト

庭と宇宙

 金沢で見たもののなかで一番印象的だったことと言えば「蟹は茹でたのが一番美味い」ということに尽きるのだが、それ以外にもうひとつだけ挙げるなら「庭とは素晴らしいものである」ということだ。特に素晴らしかったのは、長町武家屋敷の「野村家」の庭で、訪れた日がもっと暖かい日であったならば半日ぐらい眺めていたくなるものだった。  鯉がゆっくりと泳ぐ池からは絶え間なく水が落ちる音が聞こえ、色褪せない常緑樹の鮮やかな緑が冷たい空気によく映える。自然を模していながら、人工的に秩序立てられたその庭は、小さな宇宙と言っても過言ではないのかもしれない。この家に住んでいた人たちは、畳の上からきっとこの世界を眺めていたのだろう。  野村家の庭が小さな宇宙なのだとしたら、日本三名園のひとつに数え上げられる兼六園は大きな宇宙と言えるだろう。この広い空間は外側から眺めることができない(もしかしたら金沢城の天守閣からは俯瞰することができたのかもしれないが)。ゆえに我々はその宇宙のなかを歩くことによって、この世界を愉しむことになる。  

ヘルムート・ラッヘンマン/歌劇《マッチ売りの少女》

Lachenmann: Das M〓dchen mit den Schwefelh〓lzern posted with amazlet at 10.02.27 Kairos (2002-06-03) 売り上げランキング: 65080 Amazon.co.jp で詳細を見る  ヘルムート・ラッヘンマン(1935-)の最高傑作/集大成との呼び声が高い歌劇《マッチ売りの少女》(1990-96)を聴く。購入したのはKAIROS盤。この作品の録音は現在、これとECM盤が手に入りやすいようだ(ECMの方は改訂版である)。他にも録音が存在しているらしいのだが、ここ20年ほどの間のなかで書かれた現代音楽作品でそれだけバージョンがあるだけで、この作品がどれだけ評価されているか、が分かる気もする。作品は、約2時間に渡って繰り広げられる特殊奏法オペラ……といったスゴい曲なのだが、映像がないうえに歌詞がドイツ語であるため、一体何がおこっているのか分からない。調べてみると「ステージには『少女』しか出てこない」、「客席にも合唱団やオーケストラが配置される」などコンサート時の様子を想像する上でのヒントになる情報がいくつかある。またアンデルセンによる原作のみならず、ダ・ヴィンチやドイツ赤軍関係者 *1 のテキストが用いられている、とのこと。ザッピングのように再生されるドイツのポップス音源やノイズが、“冷たい音響”と対比され、大変賑やかな作品でもある。終盤では、少女の昇天を象徴するために笙による持続的な音が用いられるが、こんなところにもラッヘンマンの音の素材への関心が見られるだろうか。  昨年の『コンポージアム2009』(この年の特集は、武満徹作曲賞の審査員であったラッヘンマンの特集)で配布されたプログラムでは、高安啓介がこんな風に述べている。 第一に、ラッヘンマンの音楽は、素材への反省にもとづく。作曲にあたって大切なことは。歴史や社会のなかで、素材がどんな意味をもつか反省することである。教養の理念のもとで使い古されたもの、娯楽の欲求のもとで乱用されたものは、無条件には使えない。なぜなら、安易な聴取をゆるすものは、安易な肯定をゆるすからである。ラッヘンマンにとって「作曲するとは手段について考えること」であり、手段について考えるとは、素材について考えることだった。ラッヘンマンらしいのは、そこ...

細川俊夫/ヒロシマ・レイクイエム(細川俊夫作品集 音宇宙4)

ヒロシマ・レクイエム~音宇宙4/細川俊夫作品集 posted with amazlet at 10.02.27 (オムニバス) フォンテック (1997-01-25) 売り上げランキング: 289922 Amazon.co.jp で詳細を見る  細川俊夫(1955-)の作品集を聴く。フォンテックから出ている細川俊夫の作品集(現在10枚目まで発売されている)は、以前に「1」を聴いていた *1 。この作品集では作曲者のキャリアのなかでも最初期の作品である弦楽四重奏曲第2番《原像》(1980)と、原爆をテーマとした《ヒロシマ・レクイエム》(1989)を収録している。両曲ともにまったく色合いが異なったものであったため、聴いていて大変興味深かった。  《原像》はアルディッティ弦楽四重奏団の演奏。作曲者自身による解説によれば「私がまだベルリンでユン・イサン先生に作曲を学んでいた頃に書いた作品です」「その当時熱中していたユンや、ヴェーベルンの音楽の影響を受けています」とあるが、その言葉が納得できるような作風である。音の密度の濃淡/伸縮、は極めてヴェーベルン的であるように感じられるし、不協和のなかに時折ぞっとするような協和をもたらすところはユン・イサン的である。派手な超絶技法や特殊奏法はほとんど存在せず、全編にわたってモノトーンのアンサンブルが続く幾分地味な作品かもしれない。しかし、4つの楽器が同じ音形を弾くときに、それが層のように重なったり、ズレたりしていく様が面白かった。「層」や「線」といった言葉は、この後の細川俊夫作品を語る上で、重要なキーワードとなっていることを考えれば見逃せない楽曲であろう。  《ヒロシマ・レクイエム》は芥川也寸志によって創設されたアマチュア・オーケストラ、新交響楽団(新響)による委嘱作品であり、この録音も新響が演奏をおこなった初演時のライヴである。私は実際にこのオーケストラの演奏を聴いたことはないが、優れた技術を持つオーケストラであることを噂で聞いている。とはいえ、アマチュア。プロの技術とは比べようがない。弦楽器のソロ・パートでは演奏者の技量が透けて見え(もちろん平凡なアマチュア演奏家と比べたら、とても上手いのだが)「プロならこのような演奏になるだろう」という補完しながら聴くしかない。  作品は2部に分かれており、第1部は器楽のみによる前奏曲...

だれか『ダイエットの科学史』とかそういうタイトルの本出さないか?

 今週発売の『Tarzan』3月11日号は「太らない食べ方 実践編」だった。この雑誌をチェックするようになって大体5年ぐらいになるが、面白そうなタイトルを見つけるとついつい買ってしまう。紹介されているダイエット方法なんかあまり試しはしないのに、つい。ダイエットのメソッドも日に日に変わっていっている、というのが面白くて。  数年前までのトレンドは「炭水化物は脂肪蓄積の元凶! ごはんを減らせ! メシ喰うな! タンパク質を取れ!」というローカーボ・ダイエットが持てはやされていたけれど、今では完全に下火となっている。最新のダイエット・トレンドは「炭水化物を取らないと脂肪は燃焼しません! 必須栄養素を取れるようにまんべんなく、適度に食べて痩せましょう」という中庸的なものとなっているようだ。 1日450キロカロリーの低エネルギー食ダイエットを4日間続けた実験がある。結果的には体重は3~4kg減、ただしそのほとんどが水で、脂肪はほとんど減らなかったと言う。再び糖質 *1 を元のように摂取すると、速やかに糖質と水分子と結び付くので、体重はたちまち元通り。低糖食は本当の意味でのダイエットにはならないのだ(P.15)  かつて散々オススメしていたローカーボに対してこの言いよう。また記事をよく読むと「脳から分泌されているホルモンが云々」といった説明が増えているように思われ、なんとなく脳科学ブームがダイエット界にも反映されているんじゃないか、って思ったりする。たった数年でこれだけ言っていることが変わってしまうと「そんなに新しい研究結果ってポンポンでてくるの? なんかあやしくない?」なんて思われても仕方がないかもしれない。「○○という研究結果がある」とか言われるとなんとなく「へぇ!」とか思うけれど、実際どういう研究なのかっていうのは明らかにされていないのだし。なんだかギデンズの「専門家システムが云々」と言った話みたいだ。 近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結 posted with amazlet at 10.02.26 アンソニー ギデンズ 而立書房 売り上げランキング: 28850 Amazon.co.jp で詳細を見る  専門家がダイエットについてどういっているのか、または、社会でどんなダイエットが、どのように流行していったのか、こういった歴史をまとめた本があったら読ん...

シャイー指揮ゲヴァントハウス管/J.S.バッハ《ブランデンブルク協奏曲》全曲

Brandenburg Concertos posted with amazlet at 10.02.22 Ricardo Chailly Bach Decca (2010-02-09) 売り上げランキング: 37944 Amazon.co.jp で詳細を見る  HMVなどでは昨年に発売されていたようですが、公式の発売日は2010年2月9日ということですのでこれも今年の新譜に加えましょう。リッカルド・シャイーとゲヴァントハウス管によるバッハ・シリーズ第1弾は《ブランデンブルク協奏曲》の全曲です。第2弾の《マタイ受難曲》が素晴らしい出来であったことはすでにお伝えしたとおりですが *1 、これも素晴らしいです。このバッハ・シリーズが本年のクラシック部門におけるベスト・ディスクに選出されることは間違いないでしょう。私も「そうそう、こんな生き生きとしたバッハが聴きたかったんだよ!」と大声をあげつつ大プッシュしたいです。  《マタイ》と同様、シャイーはここでもピリオド奏法 *2 を採用しているのですが、この2枚の演奏は、これまでに私が聴いてきたピリオド奏法による録音とはまるで違った音楽を呈示しているように思われました。これは「ピリオド奏法」という言葉のイメージを書き換えられる体験です。古楽的なアプローチと言えば、枯れた音色ばかりをイメージしてしまっていたのですが、シャイーの録音はどこにも枯れたところがない。独奏ヴァイオリンのため息のようなフレージングでさえも瑞々しい。それから第5番のチェンバロがすごいです。この曲の第1楽章には長いチェンバロのカデンツァがあるのですが、これがもう「チェンバロってこんな弾き方をしても良いの!?」と驚いてしまうぐらい情熱的な演奏。途中で長調から短調に移ってからなんかまるでイングヴェイ的に弾きまくっていて興奮が止みません。  録音も素晴らしく、各楽器の配置の良さが伝わってきます。旋律の重なりによって、これが「さまざまな楽器のための《協奏曲》」として書かれていることがすごく意識できるような気がしてくる。この効果はもちろんフーガの曲でバツグンに発揮されます。そういった意味で第4番の第3楽章はこの録音のハイライトと言えるかもしれません。この曲、リコーダーの愛らしい音色も聴いていて楽しいですね。 *1 : シャイー指揮ゲヴァントハウス管/J.S.バ...