スキップしてメイン コンテンツに移動

暑い、黒い、汗




アガルタ
アガルタ
posted with amazlet on 06.07.01
マイルス・デイヴィス ソニー・フォーチュン レジー・ルーカス ピート・コージ マイケル・ヘンダーソン ムトゥーメ アル・フォスター
ソニーミュージックエンタテインメント (2000/06/21)
売り上げランキング: 18,022


 朝、家を出るとき息を吸うだけでモゥッと来る湿気にやられつつ、最近は『アガルタ』ばかり聴いている。毎年この季節になると75年のマイルス・デイヴィス来日ライヴ音源、所謂「アガ/パン」を聴くのである。ネットリと絡みつくベース、ジュワーと放たれるオルガン、空間を裂くようなトランペット。まことに暑苦しい音楽だが、黒くて熱い音楽を聴かなければ脳まで冷房病になってしまいそうで…。首にまとわりつくネクタイを思わず引きちぎりたくなるほど過酷なコンクリート・ジャングルを70年代マイルスで乗り切りたい(デレレー、デレレ。ワカチャコワカチャコ。ジュワーン*1)。





 この時期のマイルス・バンドといえば、ピート・コージーのギターに焦点があてられることが多い。あのザラついた音色で、長々とソロを取られるとカッコ良すぎて頭がおかしくなりそうなぐらい私も好きだ。サックスはソニー・フォーチュン。彼の音色もなんかザラついてて、マイルスもワウ使いまくりの時期だからサウンド全体がディストーション化しているんだなぁ、と気がつくところ。





 ただ、忘れられがちなのがドラムのアル・フォスターという人。





 数々の大スター・プレイヤーが入ったり抜けたりしたマイルス・バンドだけれど、アル・フォスターは結構バンドに定着していた人で、実はマイルスとの競演歴が一番長かったりするんじゃないだろうか。体調を崩してマイルスが活動休止していた時期にも「大丈夫っすか?元気になるまで待ってるっす、オレ」とまるで忠犬ハチ公のようにマイルスに気を使っていたという(実際マイルス復帰後もバンドでドラム叩いてる)。良い人だ。確か74年だったと思うけれど、ベルリン公演を行った際のブート映像を見たことがあるけれど、変な帽子を被って、終止笑顔でシンバルを叩きまくる姿が非常に印象に残っている。黒い肌に、白い歯、飛び散る汗。メンバー全員、クスリをキメキメでステージに上がっていると思うんだけど、みんな気難しい顔をして演奏してるのに、アル・フォスターだけ爽やかな笑顔を浮かべていて心配だ。多幸感が抑えきれずにいたんだろうか。





 『PLAYBOY』誌でマイルス・デイヴィス特集組まれていたけれど、アル・フォスターの発言は無かった気がする。結構面白い話持ってると思うんだけどなぁ。




*1:『アガルタ』冒頭のオノマトペ





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」