スキップしてメイン コンテンツに移動

私のアドルノに関するエントリに対するリアクションに対するリアクション



http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061107/1162865739#c


 id:sumita-m様、私のアドルノに関するエントリにここまで長いリアクションをいただけたのは初めてです。ので、まず「読んでいただきありがとうございます」という感謝の念を示したいと思います。こういった外部からの刺激がありませんとなかなか文章を公開している意味がありませんので、チャンスをいただきとても嬉しく思いました。


 リアクションに対する私からのリアクション、というよりもエクスキューズのようなものになってしまうと思いますがとにかく書かせていただきます。



「少々言いすぎになるかもしれないが、彼が批判するヘーゲル的弁証法のなかの「特殊者」は、ヨーロッパにおけるユダヤ人のアナロジーであったと言っても良い(かもしれない)」とは面白い解釈だが、はたしてそこまで言えるのか。また、読者の立場において、そのように「ユダヤ人」を特権化していいものかどうか。


 この点に関しては私も「言いすぎだろうな…まずいかな…」と思いながら書きましたが「そう読むことは可能である」というぐらい範囲で考えています。また「特殊者≒ユダヤ人」としたほうが、アドルノのアウシュヴィッツ関連の言葉と絡めて、私にとって納得が容易だった、ということもあります。特に私は「特権化」している意識はありませんし、アドルノが批判するような状況はどこにでもあるようなものだと思っています。ユダヤ人にのみ適応される議論だとは思っていません。むしろ、(ユダヤ的な帰属意識が弱い状態で育った世代とされる*1)アドルノ/ホルクハイマーをあまりにもユダヤ的なものと接近させる考えには「どうなのかなぁ、それ」と思ってしまう。例えばアドルノの『マーラー』の訳注に「形象禁止」の説明がありますが「神の形象を具体的に描いてはならないとするユダヤ神学の教えに由来する」としてしまうのは、かなり疑問に思います。



「非同一性」の擁護というのは、アドルノにとどまらず、俗にポストモダンと称される思考の基調であることは周知のことであろう。



 これは、赤面ものです。「ポストモダンと称させる思考」についてはほとんど何も知りませんし、視野にありませんでした。現在の思想界/論壇(そういったものがあるかどうかも知りません)から全く切り離された地点で本を読んでいるため、おかしなことはたくさん書いてあると思います。何かしら書く時点で「知らないですませるわけにはいかない」のかもしれませんが。その点に関しては私の不勉強をお詫びするしかありません。



また、この方は、ホルクハイマーの『理性の腐蝕』に触れて、「序文から「われわれの哲学は一つである」とか書いてあって二人の若干ホモセクシャル的な関係性を伺ってしまう(実際はどうかしらない)」*2と書いている。



 これはネタなので……ベタで読まれるとなんというか……すみません。


 アーレントからアドルノへの批判には、彼の音楽評論活動で「ナチス賛歌」的な歌曲を褒めていたことを戦後に「不誠実な態度ではないか」と指摘したものがありました(それに対してアドルノは『あのときは仕方が無かった』的な逃げ方をしている)。アーレントとアドルノの食い違いに関しては何も述べることはできませんが、思い出したので書きました。




*1:藤野寛本参照





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か