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吉松隆における日本的なるもの




Takashi Yoshimatsu: Symphony No. 4; Trombone Concerto; Atom Hearts Club Suite No. 1
Takashi Yoshimatsu Sachio Fujioka BBC Philharmonic Orchestra Ian Bousfield
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 現在日本で活動している作曲家に吉松隆という人がいる。慶応大学工学部を中退し、ほとんど独学で作曲技法を学んでデビューしたかなりユニークな人である(慶應と言えば、他にオンドマルトノのハラダタカシもここを卒業しているのだが、何かそういう人が育つ土壌でもあるのか)。経歴もユニークだけれど、作品もまたユニークだ。「新(世紀末)抒情主義」を標榜し、ジャズやプログレッシヴ・ロックといったポピュラー・ミュージックと後期ロマン派や印象派の音楽とを折衷させた「調性音楽」を彼は書く。現代において調性音楽を書く、ということ自体にエリート主義っぽい「現代音楽ファン」から無視されたり、鼻ツマミもの扱いされたりする原因があるのだけれど――というか私も以前はそのように「ネタ扱い」していた――もう少しちゃんとした評価してあげないといけないのではないか、と思う。彼の作品について語ったまともな文章を見たことがない気がするし。


 吉松は交響曲や協奏曲という古典的な形式の上で、過去に存在した音楽からの引用を多彩に広げ「新しい作品」として展開する。そこで調性的に、「クラシック」のように響かせる手腕が私個人としては「とても器用な人だなぁ」という感想を抱く。しかしその音楽はかなり「ニセモノ」っぽい。綺麗なんだけれど、ニセモノ――このとても不思議な感じと「技法の器用さ」が「日本的なもの」の大部分を占めている。特に戦後の高度経済成長期における日本人の感じ、というか(あくまでイメージにすぎないんだけれど)。吉松作品には、アメリカ製のテレビドラマに夢中になって、茶の間の畳の上にソファーを置いて、そこでコーヒーを「苦いなぁ」と思いながら飲む、みたいな「遠い場所への憧憬」と、それからそういう風に日本人が過ごした、という「過去の記憶」が詰まっているように思われるのだ。


 トロンボーン協奏曲《オリオン・マシーン》の冒頭は、アニメ『鉄腕アトム』のテーマ・ソングのイントロ(トランペットと弦楽器が微分音で重ねられ、ヴィブラフォンが鳴らされる)を引用したものからはじまる。これは手塚治虫へのオマージュでもありながら、手塚治虫という存在を「日本の過去」の象徴として取り扱って提示した分かりやすいメッセージだ。トロンボーンの叙情的なソロの合間に、幾度となくそのモチーフは反芻され、緊張が高まっていき、エマーソン・レイク&パーマー「タルカス」の5拍子リフをそのまま借用したパーカッションの連打へと繋がる様子は爆笑するしかないんだけど、ペンタトニックでできた旋律や邦楽に頼らずに「日本的な作品」を作れる作曲家として、吉松は稀有な存在だ。



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 ちなみに随分前から吉松は「現代音楽撲滅運動」というものを提唱している。単純に言って「美しくない、小難しい現代音楽なんてクソくらえだ!」という話なのだが、インタビューなどを読むとその現代音楽に対しての思いもかなり愛憎が入り混じったものだということが分かる。なんだかんだと言ってこの人も「美しくない、小難しい音楽」が好きなのだ(たぶん)。


 吉松隆の運動もむなしく、現在も「美しくない、小難しい音楽」はアカデミックな音楽の世界では支配的である(面白い作曲家はたくさんいるけれど)。それは吉松のデビュー当時もそうだった。デビュー作《朱鷺によせる哀歌》は「楽譜の見た目はバリバリの現代音楽。でも演奏すると綺麗に響く」というメチャクチャに挑戦的なもの。コンクール審査員の目をごまかすために書かれたこの楽譜は観ているだけでも楽しい。とにかく音の配列が美しいのである。スコアは自筆譜を印刷したもの。こういう細やかさも日本的な性格を表しているような気がする。



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