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暴力について




ある首斬り役人の日記
フランツ・シュミット 藤代幸一
白水社
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 歴史で一次資料として扱うような古い文献を読んでいて面白いのは、そこに描かれている価値観や常識が、我々の持っているそれと大幅に異なっているときだ。そのとき、過去の世界と現代の間にある「距離の遠さ」を確認するたびに、とても興奮してしまう。我々からしてみれば異星の出来事のように思われる「過去」はかつて「現代」であり、我々の時代と繋がりを持っている、という事実がそのような興奮を湧きたてるのかもしれない。社会学の分野では結構マイナーな人になってしまうノルベルト・エリアス*1という人などは、エラスムスが書いた中世の「テーブル・マナー本」の内容があまりにも現代と違うことに興奮しすぎたせいで研究意欲が湧き『文明化の過程』というとても長い本を書いてしまったほどである。

 中世ドイツで361人の犯罪者に刑罰を与えたフランツ・シュミット*2という刑吏が書いたこの『ある首斬り役人の日記』もそのような興奮をもたらすに違いない本だ。日記には、犯罪者の罪状、それから処刑の方法が書かれている。記録されている犯罪は様々。殺人、強盗、姦通、男色(!)、詐欺などがあり、女性では嬰児殺しが多い。姦通と男色を除くならそれらの多くは現代でもれっきとした「犯罪行為」とされている事柄だが、とにかくその犯罪が恐ろしく暴力的に、粗野に行われていることに私は興味を掻き立てられた。


 例えば、1577年にシュミット親方はニコラウス・シュテラーという仲間と共に8件の殺人を犯した男を処刑している。シュテラーたちの罪状はこのようなものだ。


最初は馬上の男を撃ち殺した。次に妊婦を生きながらにして切り開いたが、胎児は死んでいた。3番目は同じく胎内に女児を宿していた妊婦を切り開いた。4番目はまたしても妊婦で、彼女を切り開けば双生児の男の子は生きていた。ズンベルクのゲオルク*3が、おれたちは大罪を犯してしまった、こいつらは司祭の所へ連れて行って洗礼を受けさせてやろうと言った。しかしフィラ*4は、おれが司祭になって奴らに洗礼してやると言いざま、赤児の脚をつかんで地面に叩きつけた。



 シュテラーの一味は強盗ではないようで、妊婦ばかりを殺害し「猟奇的な殺人鬼集団」という恐ろしいサークルになっているのも怖いのだが「おれが司祭になって奴らに洗礼してやる」というセリフも過激である。しかし、女性も負けてはいない。1590年に処刑されたシュヴァムベルガーの娘マルガレータは赤ん坊を「産み落とすやいなや、赤児の左胸に小刀で一刺しし、ついで首を切り落として殺した。死体は汚水たまりになげこんだ」とある。


 このように過度に暴力的な事件は現代でも稀に聞く話だ――「20世紀の猟奇殺人史」みたいなものがあれば10年に一度ぐらいは発生していそうな気がする。しかし、シュミット親方の日記にはほとんど毎年のように記録されている。何故、この時代の人々はこんなにもエネルギッシュに暴力的なのか。それについては「文化史的・法制史的解説」をみていただくとして(そこでは前述のエリアスにも触れられている)、もう少し別なことをここで考えてみたい――この本があまりに面白かったので「この本はすごい」と私は友人・知人に触れ回っていた。そのとき、ある女性は「昔の人って残酷だよねー」というリアクションをしてくれたのだが、「別なこと」とはそれについての話。


 「昔の人って残酷」、このコメントはとてもシンプルだ。たしかにこの本を読んだら「うん、残酷だ」とうなづかざるを得ない結果になると思う。そこでうなづくのは良い(だって、そう思ってしまうのは仕方がないことだから)。けれども、昔の人を残酷だという現代の我々は果たして「残酷ではない」と言えるのだろうか、ということを私は考えてしまった。


 シュミット親方の日記には、様々な暴力が記録されている。しかし、現代においても当たり前のように暴力は存在しているのである。しかも、非常に合理化され、極めてスタイリッシュな形に変化して。現代の暴力は、中世の暴力のように残酷な印象は残さない。極端な例をあげてしまうと、ナチスドイツが開発したアウシュビッツの強制収容所は、とてもクリーンに人を殺すことができる装置だった。それは、中世の暴力よりもずっと強力で、大量に殺人を遂行することができる暴力なのである。


 残酷で粗野な「中世の暴力」と合理的でスタイリッシュな「現代の暴力」、どちらが恐ろしいか、ということを私は考えている。まぁ、あまり役にたたなそうなことだけれども。




*1:アリエスと紛らわしい


*2:ドイツ文学においては割と有名な人らしく、クレメンス・ブレンターノは彼をモデルに作品を書いている


*3:シュテラーの仲間


*4:同じく仲間





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