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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第8回講義メモ)




否定弁証法講義
否定弁証法講義
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アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
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 少し間が開いたが第8回講義を読む。この回では、前回の最後に触れられた「無限なもの」という概念について詳細な検討がおこなわれている。そこではまた、過去にこの概念がどのように使用され、あるいは使用されてこなかったのかについての反省もおこなわれている。アドルノは無限性をもったものとして芸術作品を例にあげているのだが、この部分でかなり明解にアドルノの批評がどのようなものであったのかという点が示唆されるように思う(個人的にはそこ以外にあまり発見はなかった)。内容としてはかなり軽め。以下、いつものように講義メモ。




 「無限なもの」という概念は、目新しいものでは決してない。むしろ、それはライプニッツからはじめられ、ドイツ観念論の伝統の中に組み込まれた概念である。フィヒテ、シェリング、カント、ヘーゲル……彼らの哲学ではつねに無限なものを取り扱っている。が、しかし、彼らの扱い方はきわめて大らかなものであった。「観念論において無限性というこの概念が、辛辣な言い方をしますと、一種の決まり文句、月並みなおしゃべりの類に堕している」(P.135)。彼らはみな無限なものを、無限性という概念に押し込めることによって片付けてしまっている(彼らはそれで問題を解決した、と思っていた)。しかし、問題は解決されていない。これについて、無限なものを語ることは、無限の概念を有限の形へと変換してしまうことを考えるだけでよい。


 「このことによって、その後哲学を支配することになる空疎さという独特の特徴が、無限なものについての語りに登場しました」(同)。カテゴリーの網やリストを敷き詰めていけば必ず、無限なものが捉えられ、無限な対象が所持される……というような観念論の素朴さをいまや保持することができないことはこれまでの講義の中でアドルノは何度も繰り返してきている。「そもそも哲学が何かを所持しているとすれば、哲学はただ有限なもののみを所持しているのであって、無限なものを所持しているのではありません」(P.138)。


 「体系的に哲学する」代わりに「開かれて哲学する」態度の要請。「数え上げることのできる定理の集積」(P.139)に思考を固定化するのではなく、「自らの内的欲求に従って、客観から与えられる強制的な道筋を追求すること」(同)。ここでの「開かれた哲学」もまた「体系的な哲学」の一種であることはいうまでもない。ただ、アドルノの「開かれ」がカントやヘーゲルなどの「体系」と異なっているのは、それが主観を頂点としたピラミッド状のモデルとして描かれる体系ではなく、ネットワーク型のモデルとして描かれるような体系だと言えるかもしれない。「したがって哲学は自らの内実を、切り縮められることのない対象の多様性に探し求めねばならないでしょう」(P.140)。


 芸術作品と芸術哲学の関係。「芸術作品は……それ自身において有限なもの、輪郭をもったもの、空間ないし時間のうちに存在しているものでありながら、他方ではまったく開示されえないほどに無限の意味をそなえていて、まずもって分析を必要としているものであり、そういう意味において芸術作品は、積極的な無限性といったものを提示している」(P.144)。





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