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M・ナイト・シャマラン監督作品『ハプニング』




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 面白かった!なんか宣伝が「怖い映画だよー」みたいに煽ってて「自分、大丈夫だろうか……(ホラーとかサスペンスが苦手。だって、怖いじゃん!)」と劇場に入ってから思ってドキドキしてたけど、私みたいに怖い映画がダメな人でも面白く観れると思う。


 この映画、「怖い」と煽られてるのに、全然怖くないんだよね。作品中にものすごくたくさん笑えるポイントがあるし。でも、「なんだ、怖く無いじゃん……」と思って油断してたら、ドーン!みたいな演出があるので、そこだけ準備しておけば大丈夫――かくいう私は、油断しきっていたので「うお!」と声を出して驚いてしまったよ……恥ずかしい。


 「なんかいきなり人がたくさん死にました」→「テロかも!」→「すわ、一大事」という導入部にものすごいリアリティを感じつつも、その一大事の最中に高山善廣とジャイアント・シウバを足して2で割ったようなオッサンが「ホットドッグについて熱心に語っている」ところがたまらなく好きだ。


こういう「緊迫した状況の中で、よくわからない話を熱心にする」というシーンがこの作品の中ではたくさん用意されていて(次は自分が死ぬかも!というシーンの次に、主人公が中学生みたいな男の子に『結婚してるのになんで子供を作らないんだ』と説教されてたりする)、状況と登場人物のセリフのミスマッチに毎回笑わせてもらった。「この状況で、こんなこと言ってたら面白くない?」みたいな思いつきが爆発していた気がする。カメラ・ワークにもそういうところがあって「渋滞のシーン」でバンバン人が死ぬところとか、熟慮の末に生み出された撮り方じゃない感じするもん。


 あと、やたらと人が死ぬんだけどそれが全部静かに死んでいくところとかも印象的だった。残虐シーンなんかも「えええ……それ、映しちゃって良いの?」という期待を抱かせるんだけど、ほぼ全部「一番残虐で見たくない部分の一歩手前」で切り替わって映らない(たぶん映ってたら、私は観れない)。こういうところで、この映画の「怖い点」はスプラッター・シーンにはないというのは明白だったように思う。っていうか、スプラッター・シーンないし。


 「笑えるのに、怖い」っていうのは結構斬新な体験。斬新過ぎてなんだかよくわからない仕上がりになっている、というところはたぶんにあるけれども、むしろそこが素晴らしい。本当に面白い映画だった。仕事であった嫌なこととか忘れた。あと、主人公(教師)の同僚で出てくる人(子持ち)が、ネクタイを締めたシャツの上にアディダスのウインド・ブレーカーを羽織った姿もツボだった。





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