橋爪大三郎による構造主義、というかレヴィ=ストロース入門の本を読む。構造主義の人について、フーコーやデリダについてはピンポイントでなんとなく知っているつもりでいたのだが、じゃあ構造主義ってなんなんすか?的なマッピングが上手くできていなかったので、この本を読みながら少しその整理ができた気がする。構造主義が生まれてきた歴史的背景みたいなものも知れて面白かった。驚いたのは、これが20年も前に書かれた本である、ということで「20年前から思想界隈の話ってあんまり変化がないのか?」と思ったりもした。トレンドの人がちょいちょい変るだけで、天地がひっくり返るようなことを言う人ってなかなかいないものなのだな、よく知らんけど、とアホの人のように考えてしまう。現代思想にあまり興味がなくなってきている……ということなのかもしれない。なんか自分の生活とリンクするものが希薄に感じてしまう。逆に構造主義によって乗り越えられた、とされているマルクス。これは大変自分の生活とリンクして考えられる。自分をとりまく問題として捉えられる。これはマルクスの影響を受けたフランクフルト学派の人たち(と言っても、アドルノぐらいしか読んでいないけれども)の本を読んでいるときも同じような感覚がある。今だからこそ、ハーバーマス読んでみようかなぁ、とか思うし。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...
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