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「巨匠ピカソ愛と創造の奇跡」@国立新美術館




Pen (ペン) 2008年 10/15号 [雑誌]

阪急コミュニケーションズ



 本日は国立新美術館へ。この新しい美術館へと初めて足を踏み入れたんだけれども、黒川紀章ってすげーのなぁ!って思った。晩年、都知事選に出馬してるのを見て「何この人、なんかサイコな人なの?」とか思ってたけど、ホント、カッコ良い建物を作ってたんだなぁ……なんかサイバーパンクの世界みたいな空間だった。


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 で、お目当てはサントリー美術館との共同開催のパブロ・ピカソ展。画家の生きた時代を作風の変遷で区切った展示は、ひとりの天才が生涯続けた模索のプロセスを覗くことができてとても興味深かった。時代によって、キャンバスに描かれたものの雰囲気はまったく異なっている。しかし、そこにはそれまでに描いてきたものの要素が強く残されているのが見てとれる。変化のなかには、連続性がはっきり表れているのだ。ピカソのように作風を変え続けた20世紀の芸術家に、音楽界ではイゴール・ストラヴィンスキーがいるけれど、彼の音楽の変化には果たしてそのような「線」が見出せただろうか、と絵を眺めながら思う。パリで出会ったストラヴィンスキーとピカソは親友とも呼べる関係だったと聞く。そのせいか、彼らを併置して語るものは多い――そしてこのとき、彼らとアルノルト・シェーンベルクは対照として置かれるのだ。



ストラヴィンスキーは、音楽史の終焉をクールに見定めつつ、あえて変則技を使って、なお残されているわずかな可能性を汲み尽くそうとした人だった。それに対して、もはや誰一人自分に耳を傾けてくれる人がいない荒野へ踏み出そうとも、断固として音楽史を前進させようとしたのが、シェーンベルクである(岡田暁生『西洋音楽史』より)



 ピカノの絵の変化のなかに見出せる連続性を考えれば、むしろピカソはストラヴィンスキー側にいる人間ではなく、シェーンベルクの方に近いのではないか、と絵画にはほとんど門外漢でありながら考えてしまう。ピカソに自らの手法によって、絵画史を前進させようとするような誇大妄想的な意思があったかは定かではないが、おそらく変化は常に自分の絵の「前進」であったのではなかろうか。他者からの評価がどうあれ、「過去よりも今の絵のほうが良い」という強い確信があったのでは、と邪推してしまう。もしピカソがそのような態度で創作に向かっていたのだとしたら、同じカメレオンのような変化かもしれないが、ストラヴィンスキーとはまるで異なったものだったと思う。





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