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ザック・スナイダー監督作品『ウォッチメン』




Watchmen
Watchmen
posted with amazlet at 09.05.02
Original Soundtrack
Reprise/Warner Sunset (2009-03-03)
売り上げランキング: 9361



 完全に出遅れてしまったが、周囲の友人の評判が良かったので観に行く。新宿バルト9のミッドナイト上映。この劇場には初めて行ったけれど、こういう売り方の映画館もありなの……?という感じでハードコアな映画ファンの方からすこぶる評判が悪いのもさもありなん、と言った様子。





 しかし、それとは関係なしに映画は最高に素晴らしく、いたく感激した。まず冒頭でボブ・ディランが爆音……っていう時点で持ってかれ、ガチガチにキマりまくった映像美に痺れ(アメコミというよりバンド・デシネが動いているようなイメージ)、ストーリーに酔った。ひょっとしたら昨年の『ダークナイト』以上に好きかもしれない。もちろん、善悪の相対化と言った命題の鮮やかな扱い方においては『ダークナイト』に軍配があがるのだが、『ウォッチメン』はそこを鮮やかには描き出さない、ということで逆にもっとデリケートに善悪、そして「いかにして人は善をおこなうか」という問題を取り扱えているように思う。





 基本的に登場するヒーローたちには皆「善行をする」という前提が課せられているのだが「どのように善行をするか」という部分で各ヒーローのやり方に違いが生まれている。また、善行は、力のない(アメリカの)民衆に施される。言わば、ヒーローたちは迷える仔羊に教えを与える神父なのである。冒頭で殺害されるコメディアンもまた神父だ。だが、ヒーローとして活躍する間に彼は「我々が善行を施しても世界は変わらない」という虚無的な地平に立ってしまう。物語の途中で紹介される彼の悪行は、虚無から来る人間的な迷いとも取れる。





 この迷いはその後も物語上に影を及ぼしているのだが、コメディアン亡き後しばらくの間はヒーローたちの素朴な態度を取る様子がスクリーンを支配する。ここで素朴な、と言う言い方をしたのはそこでの善が単純に「とりあえず、目下の悪を倒す」という意味で用いられているからだ。それによって素朴なヒーローたちは「当座のところの善」という立ち位置を手にすることができる。ヒーローが素朴な活躍を行い続ける限り、善は確保され続ける。当然、このとき善そのものが問われるということはないだろう。善悪を巡る問題の顕在化は、物語の最終局面まで待たねばならない。





 問題が顕在化したとき、三つの勢力が錯綜しつつ善を巡って闘争をおこなう。三つの勢力を簡単に整理しておく。まず第一に「完璧に悪を取り除くことによって、完璧な善を為すヒーロー」がいる。そして第二に、これまで物語の中心にいた「素朴なヒーロー」も戦いに参加する。さらにもはや善悪を超越し「神的な位置にいるヒーロー」が両者を俯瞰するような位置に現れる(この神は、勝敗の審判役も果たす)。一見この三者の間には闘う余地など内容に見える。善悪を超越した者にはもはやどうでも良い問題であるし(一度関係してしまったものに対するケジメとして闘っているのに近いか)、完璧な善と素朴な善ではどちらも善を行うことに違いはない。





 しかし、ここで完璧な善を行おうとしたものが「自らが悪を為すことによって、より悪い悪を封じ込める行為」(毒をもって、毒を制する策)だったことに、問題が生まれるのだ。素朴なヒーローはこの策を承認できない。何故ならヒーローが悪を行ってしまえば、それゆえにヒーローは「善ではないもの」へと身を貶めてしまうからだ。面白いのが、「究極の善」を目指していたはずのものが善というには不純なものを含み、素朴なヒーローたちが純然と(悪ではない)善を求めはじめる、という一種の逆転である。




 映画では、このような闘争があった後に「実はすでに毒をもって、毒を制する策がおこわなれた後だった」ということが明らかにされる。そして、見事にその策は思惑通りの結果を結び、虚実によって、悪によって、150万人*1の死によって、世界は救済されてしまう。これを完璧な善を為すヒーローは良しとする態度は大変合理的なものだ。そして超越者もこちら側の立場を理解する。しかし、素朴なヒーローはやはりそれを良しとすることができない。繰り返しになってしまうが、その行為が善ではないからこそ、承認できないのだ。合理的な態度に対して、これを美的な態度としても良いだろう。そこでは濁りのようなものは許されない。それゆえに、自らの存在の抹消を望むヒーローが現れてしまう。この葛藤は善悪をめぐる問いが、自らの存在をめぐる問いと接続されていくもっとも極端な例として興味深かった。




*1:桁が違うかも





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