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ゲオルク・ジンメル『ジンメル・コレクション』




ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)
ゲオルク ジンメル
筑摩書房
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 ゲオルク・ジンメルという社会学者については「ちょっとマイナーな人」ということができると思う。私は社会学部出身で学生時代は一応体系的に社会学を学んできた人間であるけれども、その講義のなかでジンメルが引かれることはおそらく一度もなかった、と記憶している。世代的にはマックス・ヴェーバーやエミール・デュルケムといったメジャーどころ(彼らの業績については、講義で習った)と同時代人ということもあり、名前は知っていたのだけれども、今日まで読む機会を得なかった。きっかけとなったのはやはり、最近になって私のゼミの先生がジンメルに関する論文を書いていたことである*1





 この『ジンメル・コレクション』には、ジンメルが遺した短いエッセー形式論考を19本収録している。全体は4部に分けられていて、それぞれ「恋愛」、「美術」、「美学」、そして「社会」とテーマが決められているのだが、冒頭の「愛の哲学断章」は以下の文章からはじまる。



エロスの憧れや夢をもう経験してしまった女の子が恋に落ちたときには、男がいつもいいところだけを見せるのは比較的簡単です。



 なんだそれは!という感じで、いきなり名著決定の判を押したくもなる。これ以降ジンメルは男女間におけるパワー・バランスを、経済的な交換と置き換えることで読み替えることで説明していくのだが(「どんな恋愛関係でも、有利なのはそれほど惚れていないほうです。あまり惚れていなければ、自分で条件を示すことができますが、惚れているほうは、それにふりまわされるのです」)、興味深いのは恋愛において惚れている方(弱者)と惚れられている方(強者)のどちらが幸福であるか、と問うた時、実は「より深く愛している方」と明示していることだ。条件を飲み続け、一見虐げられるように見える弱者のほうが実は幸福である。ここにはたやすくマゾヒズム的な性質を見出すことができよう。だが、そのマゾヒズムをジンメルは非難しようとはしない。ただ、そのようなものとして描き出すだけだ。ごく当たり前のもの、自然なものとして認識される恋愛関係から、奇妙なもの(ここでの例で言えば、マゾヒズム)を抽出するジンメルのまなざしはとても面白い。





 ただ、「恋愛」のパートに収録されているほかのエッセーについては、この時代の男女の性に関するジェンダー論的な土台がよくわからないこともあり、よくわからない、で終わってしまったが。とくに売春という「社会問題」を扱った「現代と将来における売春についての覚え書き」というエッセーでは、貧乏な娼婦は「問題」として扱われるのに、高級娼婦はもてはやされるこの状況はおかしいだろ!というジンメルの憤りは理解できるのだが、それが結婚制度を打破することによって解決しえる、というような論旨は到底受け入れることができない。ここでジンメルは「結婚システムから疎外された人々が、売春がおぞましいものであるというイメージを生産している」というような分析をおこなっているのだが、結婚システム(恋愛のシステムといってもいいのかもしれないが)を排除することによって、誰しもが自由に性愛を享受できる社会が訪れるなんてことはないだろう。性的に自由な社会(たとえば現代のように)であっても、自ずと疎外される人々は生まれるであろうし、ほとんど太陽寺院かヴィルヘルム・ライヒのようにしか読めない。ただ、こういった突拍子もない夢想レベルの話も面白いのだが。





 次に続く「美術」パートも、我々が美術作品を鑑賞する、その鑑賞するときの態度が浮かび上がるようなエッセーがあって面白い。それらは「取っ手」や「額縁――ひとつの美学的試み」といったエッセーにおいて説かれているのだが、ジンメルによれば美術作品とは、我々の目的意識とは隔絶したところで


それがそれ自体を目的としながら「統一性」を保って存在している、という。いわば美術作品は何らかのために存在しているのではなく、自らが美術作品であるために存在している、という自己言及的なものである、と(以上と同じ論旨をカントも語っていたかもしれない。どこで読んだかは覚えてないが)。この論旨自体はとくに目新しくないことかもしれないが、ジンメルはその「外部の目的との隔絶」を作り出すものとして、額縁という存在に注目し、あるいは美術的な水入れの取っ手が「隔絶」と「外部の目的」の両者へ働きかけることに注目する。ここでのジンメルがものすごく一生懸命に「どのような額縁が適切であるのか」や「どのような取っ手が適切であるのか」を吟味しているのがとても面白い。





 また「社会」のパートでは、貨幣が社会に及ぼした影響について、昨今のいわゆるグローバリズム社会への予言ようなところがある。ジンメルには『貨幣の哲学』という著作があるのようなので、こちらをチェックしてみたくなった(ただし、無茶苦茶高い)。



貨幣の哲学
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