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テーマ作曲家〈ジョナサン・ハーヴェイ〉(サントリー芸術財団 サマーフェスティバル 2010〈MUSIC TODAY 21〉) @サントリー・ホール ブルーローズ




曲目


ジョナサン・ハーヴェイ(1939-):


「スリンガラ・シャコンヌ」~15楽器のための(2009)


「隠された声2」~12人の奏者とCDのための(1999)


「シェーナ」~ヴァイオリンと9人の奏者のための(1992)


弦楽四重奏曲第4番~ライブ・エレクトロニクスを伴う(2003)


出演


指揮=板倉康明


ヴァイオリン=山本千鶴


アンサンブル=東京シンフォニエッタ


弦楽四重奏=クヮトロ・ピアチェーリ


エレクトロニクス=ジルベール・ヌノ



 サマー・フェスティバル、4日目の今日はテーマ作曲家であるジョナサン・ハーヴェイの室内楽作品が演奏されました。一昨日のトーク・ライヴの感想では「聴いてみないとよくわからん」なんて書きましたが、結果、すごく良かったです。ヨーロッパで最も重要な作曲家、と湯浅譲二に紹介されていたのは伊達じゃなかった……! とくに前半のプログラムは文句なしに素晴らしいと思いました。





 聴いていて感じたのは、ハーヴェイの作品にはどれも二重の構造を持っている、ということです。それが顕著なのは《隠された声2》という作品で、ここでは12人の奏者が弦楽三重奏と、その他、という風に分けられている(配置も前後で分けられています)。その他のセクションは「ゆっくりと、コラール風に」持続的な音を演奏し、そのうえで弦楽三重奏が細かく速いフレーズで動きます。いわばドローンにウワモノが乗っかっている感じですね。ドローンは非常にリッチで、室内楽なのにフルオケが鳴っているように豊かに聞こえ、作曲家の管弦楽法の上手さや優れた耳を物語っているようでした。また《スリンガラ・シャコンヌ》ではドローンの途切れとともに、リズミカルな動きが提示されます。これがすごく良くて、引き込まれました。





 ドローンとウワモノ、という感じではありませんが、二重構造は約40分の大作《弦楽四重奏曲第4番》にも指摘できるでしょう。ここではライヴ・エレクトロニクスが使用され、会場に配置されたサラウンド・スピーカーからはリアルタイムで変調・ダビングされた弦楽四重奏曲の音が再生される。同じようなサウンドを持つ作品ではブーレーズの《二重の影の対話》をすぐさま想起するでしょう。しかし、ブーレーズの作品でステージ上のクラリネット奏者が自らの影(=スピーカーから再生される録音された素材)と対話をおこなうのに対して、ハーヴェイの作品における4人の奏者はスピーカーの音とは無関係に音楽を進めているように聞こえます。ライヴ・エレクトロニクスもまたステージ上で展開される音楽を素材に、音響を作り上げていく。作曲家はプログラムにこう記しています。「カルテットは夢見る人であり、空間はその夢なのである……」。





 こうした二重構造の特徴は彼の思想と無関係には思えません。後だしジャンケンになってしまいますが、一昨日のトークの際に彼の話を聞いて「この人は典型的に超越系の人だなあ」と思っていたので、これは、と。超越系の人(というのは宮台真司が言う類型です)は、生きているこの世界とは別に超越的な世界を想定します。「今・ここ」にある世界と、「ここではないどこか」の世界……という風に。プラトンにおけるイデア論的世界観もその典型です。ハーヴェイが影響を受けたというシュタイナーも超感覚的世界という超越的世界を想定しました。こうした世界観が作品に反映されているのだとしたら、彼の世界観の提示は見事に成功しているように思えるのでした。



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 会場では弦楽四重奏第4番を収録した弦楽四重奏曲全集のCDが売っていました(4200円で。日本盤だったのかな……? 高すぎです。アマゾンだと3000円ぐらいなのに)。明日は芥川作曲賞創設20周年記念のガラ・コンサート、管弦楽編です!





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