会社の方に誘われて観にいきました。「寺山修司やジョン・レノンが絶賛した伝説的カルト映画」という煽り文句が仰々しく、諸刃の剣的に妖しく光っており、ドキドキしながら観にいったのですが、すごい映画だったので観にいって良かったです。こういう映画に出会うと、おそらく当然のようにこうした作品を観ているであろうシネフィルの方々がうらやましくなりますね(あなた方はこんな面白いモノを観てきたのか! そういうのもうちょっと優しく教えてよ! と)。畸形や動物の死体が画面に大写しにされるところには「40年前」の荒々しさや、おおらかさを感じ、圧倒されましたし、聖書を暗示するエピソードやシーンがさまざまにカットアップされ、結果としてチベット密教みたいな輪廻の話になるのがすごい! 『エル・トポ』の大部分は砂漠のなかで撮影されています。この不毛地帯を彷徨う主人公の姿が、旧約聖書のイメージと重なりますし、神のごとき主人公によって救われた世界が堕落するのは『ヨシュア記』から『士師記』の流れを想起させます。こうした映画のなかに埋め込まれたようにみえるイメージの数々はいかようにも掘り起こせましょう。だから好き勝手あれこれ解釈したら良い。ぶっちゃけたところ荒唐無稽な話だと思いますし、こうした錯覚に近い解釈が生まれなければとても観きれる映画ではないかもしれません。しかし、言うまでもなくこの「解釈」を可能とさせているのが強烈な映像に他ならず、これが地球で撮影されたものとは信じられないようなすごい風景も見ものです。砂漠のなかで、つぎつぎにウサギが大量死するシーンなど、私が目指したい美しすぎる悪夢的情景だったかもしれません。なお、学生時代にこの作品を観て度肝を抜かれた、という会社の方によれば「今回のデジタル・リマスターで、別の映画みたいに見えるぐらいキレイな色になっている」とのことでした。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...
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