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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#10 ロア=バストス『汝、人の子よ』




汝、人の子よ (ラテンアメリカの文学 (10))
ロア=バストス
集英社
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 昨年から続く「集英社『ラテンアメリカの文学』を読む」シリーズもようやく後半戦です。後半戦第一発目はパラグアイの作家、アウグスト・ロア=バストスの『汝、人の子よ』。パラグアイといえば、2010年サッカー・ワールド・カップでの日本代表との試合も記憶に残るものでしたが、この作家の本を読むに当たって調べてみたらなかなか大変な国でして。まず、この国の黎明期(19世紀前半)を支えた独裁者、フランシアという人が26年間ノー議会、ノー大臣の体制で政治の実験を握っていたらしいのです。絶対権力者として国を取り仕切る彼の姿は、この小説のなかにも描かれるのですが、スペイン人同士の結婚を法律で禁止して、強制的な同化政策をはかるなどなかなか恐ろしい人だったようです。そして反対する者は即刻処刑……。つまり、フランシアは恐怖政治をやっていたんですが、しかし保護貿易をおこなって国の発展を促すなど、優秀な指導者としての一面もあったんだとか。この辺の評価のポイントに2面性があるところに、彼が南米の独裁者小説のモデルになったのではないか、と伺わせるものがあります。





 しかし、フランシアの死後がこの国にとってホントの苦境だったらしいんですよね。優秀な独裁者がいたおかげでパラグアイの首都、アスンシオンは一時期まで南米随一の都市として発展していたんですが、それを快く思っていなかったアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイ(とそのバックにいるイギリス)によって、フルボッコにされる三国同盟戦争というのがあって、国の人口が半分以下に減ったりしてます。この戦争でたくさんの男性が戦争に駆りだされたので、人口のバランスがおかしくなり、それはいまだに国勢に影響を与えてるんだって。ひぃ。『汝、人の子よ』は、こうした苦境がいろいろあって、近代化からも見放されたド田舎の村から話がはじまります。このはじまりの超ド田舎感は最高です。





 そこで、まずフォーカスが当てられるのは村の長老でした。コイツが半分キチガイみたいな感じの存在で描かれているんですが、とにかく昔話が上手い。だから、こども達が話を聞きに集まってくる。小説の語り手は、この老人が語る物語の聞き手のひとりとして登場します。そこで語り手が聞くのはひとりの「殉教者」の姿です。発展の望みが見えない村で、村人たちのために楽器を制作し、ほとんど金を設けようともせず、ひたすら村のために尽くしてきた男、そんな男がある日、らい病にかかってしまい村から姿を消してしまう。彼は村から離れた山奥で、ひとりこもり孤独に耐えながらキリストの彫像を彫る(村のために、男は村へと戻ろうとしない)。そして、男の死後にその彫像が村に奉られることとなる……この部分だけとってみても、完成された短編小説の世界が構築されていて素晴らしい。





 この作品は、連作の短編小説のような作りになっているんですが、この殉教のテーマはその後も引き継がれていく。なにに対して自分の身を捧げるのか、という変化がありつつも、この構図が続き、傍観者としての語り手は殉教者になれない自分の身を憂いながら、死に行く。傍観者からは殉教者の姿が、キリスト教の教義通りに救われるものとして描かれるのが物悲しくて良かった。あと、パラグアイという国は、スペイン語とグアラニー語という二つの言語が公用語となっているんですが、この言語による二重性も興味深かったです。近代へと開かれた言語と、ローカルへと留まる親密な言語。言語がこうした対比を生んでいるところが、複雑な国の様子を象徴しているように思われました。それは帝国主義・植民地主義が残したモノでもあるわけです。アフリカもそうですけれど、南米の歴史を省みることは近代の歴史を省みることに近いように思えてなりません。





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