スキップしてメイン コンテンツに移動

エール・フランスの飛行機のなかで聴いた音楽(アラブ編)


先月のフランス旅行の行き帰り、映画観たり音楽聴いたりする機械をいじっていたら、、異様にワールド・ミュージックが充実していることがわかり「さすがエール・フランス……これは良い機会だ」と思っていろいろとザッピング的に聴き、面白かったモノをメモっていました。今回はそのアラブ編をご紹介。冒頭に配したのは、エジプトの伝説的歌手、Abdel Halim Hafez(アブドゥル・ハリム・ハーフェズ)による「Ahwak」という曲のライヴ映像です。英語版Wikipediaの記事によれば、彼は「アラブ音楽の王」、「国民の声」、「革命児」として絶大な人気を誇り、1977年に48歳で亡くなって40年以上経過した現在でも毎日のように彼の歌声がテレビやラジオで流れるんですって。ムード音楽っぽい極厚なストリングスが、ねっとりとしたポルタメントを聴かせるところで、ものすごい中東感を煽ってくるんですが、3:10あたりで曲調が舞踏的に変化するところのドライヴ感がヤバいです。オーケストラのなかにはエジプトの伝統楽器もあるし、ギターやオルガンもある。アブドゥル・ハリム・ハーフェズは自分で指揮もやるし、こういうスタイルの芸能はちょっと他の国のなにかに喩えたりして表現するのが難しい。

Abdel Halim
Abdel Halim "Live"
posted with amazlet at 12.10.07
Jasmine Music (2008-08-05)



次は、レバノン出身のFairuz(ファイルーズ)による「Habaytak belsayf」という曲。この人は日本語版Wikipediaのページもある。なんでも「分厚いヴェルヴェット」と称される彼女の美しい歌声はヨーロッパでも人気を得たそうです。ちょっと岸田今日子みたいなヴィジュアルですし、これはおそらく古いテレビ映像だと思うんですが、演出がNHKの歌謡曲番組みたいだし、曲もそんな感じである。けれども時折、節回しにイスラム圏の民族音楽(クルアーンの朗誦みたいな)っぽいところが現れるのが面白かったです。


ワールドミュージック感だとこっちの曲のほうがより濃いですね。

The Legendary Fairuz
The Legendary Fairuz
posted with amazlet at 12.10.07
Fairuz
Blue Note Records (1998-05-19)
売り上げランキング: 189499


こちらのOum Kalthoum(ラテン文字への転記にはかなり揺れがあるようですが、日本語だとウム・クルスームと表記されるようです)は、ファイルーズの前の世代を代表する中東の女性歌手だったそうです。Wikipediaだと日本語版は1904年生まれ英語版は1898年生まれとあり、よくわからないんですが彼女が生まれたのはオスマン帝国だったという記載から「それもう歴史上の人物じゃんか」という感じがするんですが、もはやちょっとファンク感あるパフォーマンスが素晴らしいですね。
実演においては、ウム・クルスームの歌が持続する時間は固定されておらず、歌手とその聴衆のあいだの感情的相互作用のレベルに応じて変動した。クルスームの典型的な技巧は、歌詞のなかの単一のフレーズや文章を、幾度も幾度も繰り返し、繰り返しごとで、感情的強調とその強度を、絶妙に切り替え変化させて行くというものだった。
日本語版Wikipediaページによれば、上記のような形式で長時間に渡るパフォーマンスをしていたそう。ファンク感がある、ではなく、ファンクそのものじゃないか。イスラム圏のパフォーマンスが長大な時間をおこなう音楽では、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン(パキスタン)に代表されるカッワーリーなどを思い起こしますが、カッワーリーが即興的に歌われる神秘的な詩なのに対して、こちらは反復であり聴衆の感情を相手にしている。そういう違いも面白いです。

ウム・クルスームの旋律
ウム・クルスームの旋律
posted with amazlet at 12.10.07
AHMAD AL HAFNAWI&THE OM KALSOUM ORCHESTRA
インディーズ・メーカー (2009-03-01)
売り上げランキング: 426327

かなり古い音楽が続きましたが最後にKhaled(ハレド)というアルジェリアの歌手の新譜を(北アフリカですが、アラブの音楽としてカテゴライズされていました)。現在はあるジェリアだけでなく、フランスでも活動しており、上に配した動画の「C'Est La Vie」はフランスのシングル・チャートで4位を記録したそうです。御年、52歳でこのアゲアゲ感はちょっとスゴい、なんかものすごい数の女性を一晩で相手にしたりしてそう。ハレドはアルジェリア西部のポップスである「ライ」の代表的歌手と見なされており、2010年のワールドカップの開会式にも出演してるんだとか。今回の「C'Est La Vie」はダンス・ミュージックに極端に寄っていますが、もともとはジャズ・フュージョンっぽい。


2012年のモロッコでのライヴ映像。ここでは「Didi」という彼の代表曲を歌われています。これはむちゃくちゃカッコ良い。今回、Wikipediaばっかり参照していますが「ライ」のページによれば、この音楽においては、アルコールなどのイスラム圏でのタブーも歌われたことが大きく注目されるなど、伝統的なイスラムの文化とヨーロッパから入ってきた文化とのせめぎ合いみたいなものがあるらしく、さらに政治的な結びつきも強いそうです。その混じったり、混じらなかったりする部分は、かつてのブラジルにおけるトロピカリズモ運動を想起させます。今後ちょっと調査していきたいかも。

C'est La Vie
C'est La Vie
posted with amazlet at 12.10.07
Khaled
Universal (2012-09-03)
売り上げランキング: 24124


というわけで、アラブ編はこれでおしまい。次回はアフリカ編をお届けします。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か