スキップしてメイン コンテンツに移動

「中世の大思想家たち」より『アヴィンセンナ』を読む アヴィセンナの生涯と そのバックグラウンドについて(ヤング・アヴィセンナ編)


Avicenna (Great Medieval Thinkers)
Jon McGinnis
Oxford Univ Pr (Txt)
売り上げランキング: 55469

『アヴィセンナ』第一章のまとめの続きです(前回)。今回はアヴィセンナの生涯についての部分をまとめていきましょう。歴史に名を残す思想家はとんでもない天才だったりしますが、彼もまた例に漏れず。天才エピソードがいくつも登場し、とても楽しく読みました。アヴィセンナが生まれたのは980年、その50年ほど前からアッバース朝の崩壊がはじまっている……というところからこのセクションは始まっています。945年、シーア派のブワイフ朝がバグダッドを制圧し、当時のカリフ、アル=ムスタクフィー(al-Mustakfi)はその傀儡となり、アッバースの血脈がカリフになるというのは名目上のものになってしまう。これに続いて、さまざまな地方権力者たちによる自治がはじまり、アッバース朝の支配圏だった土地はバラバラになります。フラーサーン(Khurasan)地方を治めたサーマーン朝もこうした経緯で成立したものです。アヴィセンナの父親はこのサーマーン朝の最盛期のアミールであるヌーフ・イブン・マンスール(Nuh ibn Mansur 976 - 997在位)の治世下で、ハルマイサン(Kharmaythan)という村の統治者に任命されています。ここはブハーラー(Bukhara)というオアシス都市周辺の村のうち、重要度の高い村のひとつでした。アヴィセンナの父親についてはどういう人物だったのかよくわかってないそうですが、彼はシターラ(Sitara)という女性と結ばれ、ハルマイサン郊外のアフシャナ(Afshana)という小さな村に家を作り、そこでアヴィセンナこと、アブー・アリー・イブン・スィーナー(Abu Ali l-Husayn ibn Sina)が生まれます。オギャー!

一家はアヴィセンナの5歳年下の弟が生まれるとブハーラーに移り住み、そこでアヴィセンナはクルアーンとアラビア文学の先生をつけてもらいました。ここから彼の天才っぷりが炸裂。10歳までに彼は、クルアーン全文と数々のアラビア文学の名著を丸暗記し、地方の野菜売りのもとでインドの算術を、イスラム法の法学派のひとつハナフィー派のイスマーイール・アズ=ザーヒド(Ismail az-Zahid)のもとでイスラム法を学びます。さらにアヴィセンナは、アブー・アブド・アラー・アン=ナーティリー(Abu Abd Allah an-Natili)という家庭教師までつけてもらい、哲学の初歩を教えてもらうようになる。それ以前にもアヴィセンナは、カイロから各地に派遣されていたイスマーイール派の伝道師たち(前回参照)から霊魂と知性についての哲学的講義をうけており、アヴィセンナはその内容に納得はしなかったものの、理解できたと伝えています。なんと勉強好きな子どもだったのでしょうか。

その後、家庭教師のアン=ナーティリーはアヴィセンナの父親に「このコは学問の道に専念させたほうが良い」と進言し、アヴィセンナはこの家庭教師のもとで正式に哲学の勉強をはじめています。これはテュロスのポルピュリオスによる『エイサゴーゲー』(アリストテレスの範疇論の手引きとなった論理学書)から、とアカデミーでの伝統(前々回参照)に沿ってロジックからはじめられるのですが、すぐにアヴィセンナは家庭教師が持っていた知識に追いつき、追い越してしまい、教師と生徒の立場が逆転してしまった、とアヴィセンナ自身が語っています。で、この家庭教師はクビになったのか、2人でプトレマイオスの『アルマゲスト』の内容をマスターした頃には、ブハーラーを離れます。ここからアヴィセンナはひとりで哲学と神学の書物を読みあさり、さらに法律の勉強も続け、薬学にも手をつけはじめます。

こうして手広く色々勉強していたヤング・アヴィセンナでしたが、最も熱心だったのは論理学や哲学といった学問でした(16歳から1年半、彼はこの分野に再度取り組みます)。彼は手当たり次第に読んでいたものをカードにまとめ、議論を形式化し、根拠や結論、関係性のリストを作っていたんだって(知的生産の技術!)。その情熱たるや、夜は寝ないし(電気がないから灯りはもちろん蝋燭です)、夢のなかでも哲学的な議論をしていたというのですから、ほとんどスポ根状態といっても過言ではない。こうして彼は論理学や自然哲学についての理解を可能な限り深くしていきます。

しかし、そんなアヴィセンナのもとにも強敵があらわれます。それはアリストテレスの『形而上学』でした。彼は、この書物を40回読んで、ところどころ暗記していると言うのに文の意味がまったくわからない。これはもう無理、と諦めていた、と告白しています。ちょうどその頃、彼のところにひとりの本売りの商人がアル=ファーラービーの『アリストテレスの『形而上学』の意図』という書物を持って現れます。このわずか5ページの書物を最初、アヴィセンナは「いらないよ」と言ってしまうのですが、本売りは粘り強く「これは持ち主から委託で売ってるものでして、持ち主の方がどうしてもお金が欲しいそうなんですよ」と売り込みをかけ、アヴィセンナはたった3ディルハム(いまでいうと6ドルぐらいの価値だそう)で手に入れます。当時活版印刷なんかありませんから、本はとても高価なものだったと思われます(中世ヨーロッパの話になってしまいますが、写本の価値についてはクニ坂本さんの「中世末期の本」というエントリが有用です)。ですから、アヴィセンナは超激安価格でこの本を入手しているわけです。そしてこれを読んだ途端に、意味不明! と投げ出していた『形而上学』の意味が理解できるようになったんだそう。このめぐりあわせに感謝し、翌日彼は多額の喜捨をおこなった、というエピソードは『まんが道』みたいで良いですね。

こうして哲学の学習をしながらも、アヴィセンナは薬学についても短期間でマスターしていました。そして、彼は単に本で読んだ知識だけでなく実践的な医術を収集することもはじめます。この分野でも彼は優秀で、当時の名の知れたお医者さんが彼に教わるようになっていたそうです。若干17歳と半年にして、アヴィセンナは時の権力者であるヌーフ・イブン・マンスールがかかっていた病気の治療にあたる宮廷医師にアドヴァイスをおこなうために招聘されます。彼のアドヴァイスが功を奏し、ヌーフ・イブン・マンスールは病気から回復、そのままアヴィセンナは宮廷医師のひとりとして仕えることとなりました。

高価な書物の収集が権力の誇示につながっていたことがあるのでしょう。ヌーフ・イブン・マンスールの宮殿には、大きな図書館があったそうです。これは『驚異と自然の秩序』で言及されている15世紀から17世紀のヨーロッパの権力者のあいだで流行した「驚異の部屋」と事情は似ているように思えます。数多の書物が部屋毎にカテゴリー分けされて収蔵されており、アヴィセンナが宮廷勤めをはじめたことは、この知的財産にアクセス可能になったことを意味します。勉強熱心だったアヴィセンナでもさすがに部屋の棚いっぱいに本が収まっている光景は見たことがありませんでした。たぶんそれでテンションがブチ上がってしまったのだと思いますが、彼はこの図書館にある書物群を18歳のときに読み尽くしてしまうのでした。本書ではこのチャンスによって、彼の哲学的体系が作り上げられた、とされています。彼自身「あのときから新しく知ったことなんか何もなかった」と豪語するほど、この時点で知識が完成されるのです。アヴィセンナの名声は21歳のときまでに、その地域でよく知られるところとなり、彼は執筆活動もおこなうようになっていました。この頃は、『Prosodic Wisdom』、『The Sum and the Substance』、『The Saintly and the Sinful』といった書物を書いているそうです(邦題が不明だったため、英訳を引用)。

そして、1002年。アヴィセンナが22歳のときに彼の父親は亡くなります。同時期に彼はブハーラーの監督官的な地位に任命されました(すごい出世)。しかしその頃サーマーン朝の権力は、すっかりその地域から消えていました。この影響があってか、彼はブハーラーからホラズム(フワーリズム Khwarizm)地方のグルガーンジュ(Gurganj)という都市に移ります。ここは現在のトルクメニスタンのクフナ・ウルゲンチ(Kunya Urgench)という町にあたるそう。そこでアヴィセンナは、アリー・イブン・マームーン('Ali ibn Ma'mun)というアミールの下で法律家として慎ましい月給をもらって暮らしたんだとか。これはアヴィセンナの放浪人生をはじまりであった、という風に彼自身が伝えています。

1012年、アヴィセンナはこの年にカスピ海沿岸のジュルジャーン(Jurjan)という都市に移っています。これは無茶苦茶な長旅であったらしく、いろんな都市をめぐっていました(本書5ページには当時の地名入りの地図がありますが、それで確認するとアラル海の南のあたりからえらい遠回りをしてカスピ海にむかっている)。伝説によれば、この移動はトルコ系スンニ派のガズナ朝の最盛期のスルタン、マフムードが絡んでいた、と言われているようです。このときガズナ朝はアフガニスタンを中心に、東はインドのパンジャーブ地方、西はほとんどイラン全域、北はウズベキスタンぐらいまで勢力を拡大しています。とにかくすっげー強かったっぽいので、世界史の教科書などを各自確認してください。で、そのマフムードはマームーンに向かってガズナ朝の宮廷に優秀な学者連中を送れ、と要求し、そのなかにアヴィセンナも入っていたのだけれども、彼はガズナに向かうのが嫌だったので逃げ出し、途中砂嵐に巻き込まれたりして危険な目にあったりしながら、マフムードにつかまらないように放浪をつづけ、ジュルジャーンに辿りついたのだった(どっとはらい)というのがその伝説なんですが、これはいろんな時系列を考えると嘘っぽい話なんだとか。そもそも彼がジュルジャーンに着いた1012年にはすでにこの地域はガズナ朝の勢力下だったので、アヴィセンナがマフムードが嫌だったとしても逃げた意味はなかったのですね。

その後、すぐにアヴィセンナはホラズム地方の境界にあるディヒスターン(Dihistan)という都市に移るのですが、そこで彼は重病にかかってしまいます。病気から回復した彼は、元にいたところのほうが安全じゃね? と思いなおして、ジュルジャーンへと戻り、そこで彼の残りの生涯を見届けることになる弟子のアブー・ウバイド・アル=ジューズジャーニー(Abu 'Ubayd al-Juzjani)と出会います。このとき、アヴィセンナは22歳。ここまでで彼の生涯の前半セクションが終わっています。だいぶいろんなこといろんなことをやってた感がありますが、後代に伝わる彼の重要な業績はまだ全然でてきてません……というわけで、後半もお楽しみに。(続き

もういちど読む山川世界史

山川出版社
売り上げランキング: 2936

アヴィセンナとともにイスラム世界の歴史を学び直すのには、こういう本があると便利なのかも。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か