スキップしてメイン コンテンツに移動

鈴木翔 『教室内(スクール)カースト』

教室内(スクール)カースト (光文社新書)
鈴木 翔
光文社 (2012-12-14)
売り上げランキング: 2,837
読んでいて学生時代の社会学のゼミで論文を書いたのが懐かしく思い出される新書。著者の修士論文を大幅に加筆修正してできあがった著作だそうだが、この本の「先行研究の検討 → 調査・分析 → 結論」の流れと方法論は、学生時代の先生に「こんな風に書きなさい」と言われたことそのままだったかも。研究所や論文だけではなく、サブカルチャーからも「スクールカースト(簡単にいえば、教室内で生徒児童のあいだにつけられた序列関係)」とはなにかをひとまず定めた先行研究の検討にはじまって、調査・分析で、先生や生徒からのインタヴューからさらにスクールカーストの実態が明らかにしていく流れが凄まじく良い。結論部でも、スクールカースト内の各グループが優劣なしの横並びであるという宮台真司の分析に反して、優劣ありの縦並びの関係になっていたことを明示していて、おさまりもキマっている。

もし、同じゼミでこんな論文書いてる人がいたら、嫉妬していただろうと思う。インタヴュアーとしても分析者としても、スクールカーストを「知らない人」の立ち位置で研究対象を見ているところが上手いと思ったし、しばらくこの本は(計量系とかマスコミ系じゃない)社会学部のゼミでの卒業論文を書く際のお手本になってしまうのでは。ヒットしているのも納得の良書です。

分析対象のインタヴュー・データもまた面白いんですよ。正直、わたし自身はかつての教育期間において「スクールカースト」を意識したことがなかったし(第一そんな言葉当時はなかったわけで)、いま当時の生活を思い返しても、あまりピンとこないものがある。地方の進学校で男子校というちょっと特殊な環境で、かつ、自分自身が「人と仲良くなれなくても、そんなに苦じゃない」性格であるんだろうけれど。

しかし、それでも、本書に載せられている、元高校生の口から語られた教室内の模様は「なるほど、そういうことはあるだろうな」と納得感を感じさせながら読めるものだったし、なかには「すっげえ、わかる」というものもあった(特に『ウチらのクラス最高!』と一部だけが盛り上がってる空気感の嫌さとか)。教師側へのインタヴューも、スクールカーストという文化を教師たちが(ある種、共犯的に)利用していることがわかったりして、なるほど、と思わせられる(ただ、教師のインタヴュイーは全員著者の知人で20代の若い教師という偏りがあるので、ヴェテラン教師がどうスクールカーストを考えているかは本書にはまったく表れていない。これは著者も問題視しているところ)。

生々しい関係性の描写とともに、著者はスクールカーストの負の側面を追求している。「いじめ」を誘発したり、そもそも「生きづらかったり」とか。とはいえ、その仕組みをまるごと外部から解体することは不可能なのも事実。明文化された制度でもないし、そういう序列関係ってパレートの法則みたいに勝手にできちゃったりするのだろうし。著者が「スクールカーストの苦しさへの対策」として薦めるのが「学校から一旦離れること」としているのは、スクールカーストを解体できないものとして捉えているからだと推測する。学校に通わなくても、高卒認定をうければ、もっと自由な人間関係が築ける大学にも進めるし、就職したらもっと自由になる。だから、今に絶望しなくても良いのだよ、というアドヴァイスは真っ当なものに思える。

ただ、このアドヴァイスは「別な選択肢」を選んだときのコストの高さに対して楽観的ではある。考えてみてくださいよ、「え、なんで高校辞めちゃったの?」とかその後イチイチ聞かれたりする面倒臭さ。学校を辞める本人だけでなく、その親も「大変ねえ……学校辞めちゃって」とか言われたりする面倒臭さ。以上はライトな感じの例に思われるかもしれませんが、そうした「普通でないこと」の面倒臭さを改善できないと、なかなか別な選択肢も選びにくいよねえ。

個人的に「コレは一番キッツいだろうなあ」と思ったのが、スクールカーストの順位づけの流動性が固定的である点。下のコは大体下だし、上がるケースはめったにない。この流動性の低さは、教師のインタヴューにでてくる「カーストが下のコは将来的にも不安」「社会でも求められてない人材に見える」という意見とあわせると、立派な社会問題にも見えてくる。一度、下のコになってしまうと、そのコは社会でも上手くいかないリスクを負うわけで。スクールカーストがパレートの法則的に自然にできてしまうのならば「別な選択肢」を選ぶことが自然になって、スクールカーストから抜ける人が増えることで、順位付けの再編成の機会も多くなり、流動性が高い構造が生まれたりするなら良いんだろうけれど……。

そもそもどうやって順位付けが行われるのか。これに対してもアンケート調査で、評価項目の洗い出しが行われている。その調査結果は「スポーツができる」、「見た目が良い」、「交際相手がいる」とか意外性があるわけではないんだけれど、結果を読んでいると、順位付けのシステムの謎は余計に深まっていくような気もする。例えば、会社だったら人よりも多くの契約をとってきたらエラい、みたいな明確な基準があるじゃないですか。でも、教室内では「勉強ができる」とか「スポーツができる」とか全然違う内容によって順位付けされてしまう。

これって、カレーライスとハンバーグ、(どっちが好きかじゃなく)どっちが優れているか、みたいな問題だと思うんですよね。この店のカレーライスとあの店のカレーライスはどちらが美味しいか、なら答えられても、まったく違うものの優劣は決めにくい、というか決められない問題です。にも関わらず、教室内では、なんとなく雰囲気で序列が決定する、という不思議さが端的に面白いです。ニクラス・ルーマン流にいうならば、そこでの決定に関わるパースペクティヴがどのようなものなのかが気になるところ。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か