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そういえばツェッペリンばかり聴いていたのだった

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Presence
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去年の暮れぐらいに「Led Zeppelinが聴きたいな〜」という気分に突如として襲われ、持ってなかったり、昔MDに録音して聴いてたりしたアルバムを買って猛烈に聴きまくっていたのだった。以前友達と飲んでいたときに「紺野さん、Led Zeppelin好きなんですか!? 意外すぎる」と驚かれた記憶があるが、ずっと「普通に好きですよ」という感じのスタンスでおり、今はそれこそハードロックに出会い立ての中学生ぐらいの勢いで聴きまくっていたおかげで「いや、めちゃくちゃ好きですよ」と胸を張って言いたい。

「いや、すごいですね、Led Zeppelinは」とまるで阿呆のような感想しかでてこないのだが、こんなに創造的なバンドもないですよね。とくに『Houses of the Holy』、『Physical Graffiti』での音楽性の拡大、からの『Presence』でドラム、ベース、ギター、ヴォーカルの音だけで非常に締まったカッコ良いロック・サウンドを構築してしまうところとか、なんなのか、と思う。『Presence』なんかほとんどポストパンクみたいだし、ドラム、ベースのごっついリズム隊のうえに、ギターとヴォーカルが乗っかっている構造は、ロマン派のオーケストラみたいにも思えてくる。

そして改めて、ジミー・ペイジもすげえギタリストだなあ、と思ったのだ。テクニック的には結構いい加減に弾いててヘタクソ感がすごいのだが、音色の作り方であったり、オーバー・ダビングの仕方であったりにものすごく関心してしまう。『Presence』に収録された代表曲のひとつ「Achilles Last Stand」など、どうやってこのギターの音を出しているのか、なんでこんなカッコ良い音の重ね方を思いついたのか、とか魔術師的な魅力さえ漂わせている。Zeppelinというバンドはまことに奇跡のようなバンドであったのだな。

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