スキップしてメイン コンテンツに移動

井筒俊彦全集(第2巻)『神秘哲学 1949年-1951年』

神秘哲学 一九四九年― 一九五一年 (井筒俊彦全集 第二巻)
井筒 俊彦 木下 雄介
慶應義塾大学出版会
売り上げランキング: 460,472
だいぶあいだが空いたけれども、積ん読にしてあった井筒俊彦の全集2巻を読む。年代ごとに文章が収録されている。第1巻が1935年から1948年の仕事だったのに対して、第2巻は1949年から1951年の仕事で一冊ってこの期間に仕事しすぎであろう、という感じになってしまうのだが、本巻のメインである『神秘哲学(ギリシアの部)』が1978年に刊行された版を採用しているため。『神秘哲学(ギリシアの部)』が最初に刊行されたのは1949年で、それは1979年版で言うところの第2部のみ。あとで第1部を書き足してるので、第2巻の1949年から1951年にはこの期間以外の仕事も織り込まれていることになる。

しかしながら、当時40歳にもなっていなかった頃の井筒がどれだけ巨大な仕事をしようとしていたのかがところどころに垣間見えるのが恐ろしい。「神秘哲学(ギリシアの部)」の続刊としては「神秘哲学(ヘブライの部)」(原稿約1000枚)が予定されていたというし、それに続く「キリスト教神秘思想の部」というのも予定されていたというのだから。本巻に収録された1950年に刊行された『アラビア語入門』の序文には、こんなことが書いてある。
本書を私が執筆したのは、今からもう8年も前、昭和16年の晩秋のことであった。その頃私は、アラビア語で生活し、謂わば文字通りアラビア語を生きていた。朝起きるときから、明け方近く床につくまで、アラビア語を読み、アラビア語を書き、アラビア語を話し、アラビア語を教えるという、今憶えばまるで嘘のようなアラビア語の明け暮れであった。本書は私にとって、本当に憶い出深い書物なのである。元来、私がこの本を書いたのは、その頃丁度華々しく創設されたばかりの慶應義塾語学研究所及び外国語学校の事業の1つとして、世界の重な言語を全部網羅した語学入門叢書を刊行する計画が出来て、此のアラビア語入門書をその第1巻とするつもりだったのである。そして私自身も、これに引続いて、ヘブライ語、シリア後、ペルシア語、トルコ語というような順で、東洋の文化的意義のある言語の文法を次々に書いて行く計画であった。
まったく「お前はなにを言っているんだ」というような話ではないですか、太字部分。昭和16年頃の「アラビア語の明け暮れ」も相当スゴいけれど、こういう構想だけだってさ、なかなか言えないですよね。野球の入門書書いたら、バスケとか水泳とかの入門書も書きます。もちろん、それぞれ、プレーヤーとしても頑張りながらです、みたいなこと言ってるみたいなもんですよ。

本書のメイン『神秘哲学(ギリシアの部)』は1949年原典復刻版(関連エントリに読書メモ的なものへのリンクをまとめている)ですでに読んでいた。だから読むのはほとんど2度目と言っていいのだが、まあ、改めて読んだら、井筒ってすごい書き手だったんだな、と思う。

今となっては、井筒よりもわかりやすくて、親切な教科書ってたくさんあると思うし、井筒の書き方はそもそも入門書的な書き方をしていない。「アリストテレスの能動知性論がその後、キリスト教神学をトミズムとアヴェロイズムとで真っ二つに分けるきっかけとなったのは周知の事実である」みたいなぶっちぎった書き方するし。でも、すごいのよ。文章の力が。井筒がテクストを読んだ時の感覚だとか、井筒の思考をトレースするような怒濤の流れがあって、それに酔いそうになる。

毎回冒頭部分がとてつもなく良いんだよね。たとえば本書の最初に収録されている「詩と宗教的実存: クロオデル論」にしても書き出しはこうだ。「美しい花から花へ舞い戯れて行く胡蝶のように、地殻の表面に現象する多彩な美の幻影のみを追いもとめている詩人がある」。『神秘哲学』はこう始まる。「悠邈たる過去幾先年の時の彼方から、四周の雑音を高らかに圧しつつある巨大なものの声がこの胸に通って来る」。もう、え、なにがはじまるんですか、みたいな感じじゃないですか。ただもんじゃないですよ。真面目に読んだら勉強になるし、不真面目に読んでも音が気持ち良い。

関連エントリ

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か