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羽生善治(監修) 『羽生善治のみるみる強くなる将棋序盤の指し方入門』

引き続き、まだ将棋にハマりっぱなしで全然ほかの本が読めないでいる今日この頃である。一週間あまり将棋を指していたら、どうにか「全然将棋を勉強していないド初心者」が相手なら、オンライン対戦でまず負けないレベルになってきたが、いかんせん自分の戦術が「棒銀」しかなかったので、対抗するような戦術を取られると厳しくなる……という現状。そんななか、最強棋士羽生善治監修による「序盤の指し方」入門を読んだ。

ホントにこのシリーズって有益で。「どのように駒を進めていけば負けにくいか(そして、勝てるのか)」という理論を、イメージで理解させるのがとてもありがたい。定石や戦術を覚えさせるところから始まるのではなく、定石や戦術が「なぜ、負けにくいのか(勝てるのか)」の基礎的な部分を丁寧に説明してくれている。言うなれば、基礎科学的な説明が大半を占めているのだが、それによって「覚えなくても、考えればわかる」というレベルを読者に達成させていると思う。実際に羽生善治がどこまで関与しているのかわからないのだが、サラリと読んでいくだけでも、理解した気になれ、しかも、実際に対局すると自分が負けにくい実感があるのだからスゴいテクストだ。

戦術を覚えることは考える時間とリソースを省略する方法に他ならず、そこを押さえると制限時間があるゲームのなかで有利になるのは当然である。ただ、阿呆のように定石を覚えても、なぜ、それが良いのか、が理解できていなければ、このゲームの面白さは本当には理解できないようにも思う。そこをものすごくスムーズに伝えている。で、その基礎理論はごくシンプルなんですよね。そのシンプルな理屈から、様々な戦術が生まれていることには改めて将棋の奥深さを感じるし、ますますのめり込んでしまうんだ。

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