スキップしてメイン コンテンツに移動

雨とピアノと筋トレと




Piano Sonatas 4 & 7
Piano Sonatas 4 & 7
posted with amazlet on 06.07.21
Leo Ornstein Janice Weber
Naxos (2002/07/29)
売り上げランキング: 150,791



 週に3日はやりたいな、と思っている体脂肪減少のためのランニングをこなし、早々と眠ってしまったのですが、午前3時、晴れ晴れしいような気持ちで目が覚めました。体を鍛えていると妙に睡眠と起床のリズムが健康的で素晴らしい。読書、それから筋トレなどをして新聞が来るまでの時間を過ごしました。ブーンと原チャリがやってくるのを聞きつけて外に出てみると梅雨らしい雨がシトシトと。梅雨が入る前は、まるでここはプーケットかどこかか、という湿気とスコールの繰り返しでしたが、ここ一週間は何年かぶりに「日本らしい梅雨模様」が続いているような気がします。





 朝食を食べようと思い、冷蔵庫をあけるとビールしかはいっておらず。コンビニに行くのも面倒だったから、インスタントの味噌汁と味海苔で簡単に食べました。ふっと退屈がやって来て、ずっと聴いていなかったCDでも聴きなおそうかという気分になりました。そこで手に取ったのがレオ・オルンスタインという作曲家のピアノ作品集。はっきり言って全く無名の作曲家です。ただ驚かされるのは「1892年生まれ、2002年死去」というプロフィール。よく「芸術家=短命」という通説を一人で覆さんという勢い。享年110歳のオルンスタインの存在だけで作曲家の平均寿命が上がっている感じがします。





 その生涯もかなり波乱に満ちていて、面白いんですね。彼はウクライナ生まれのユダヤ系ロシア人。ヨーゼフ・ホフマンの推薦でペテルブルク音楽院に入学する神童ぶりを発揮するも、国内の反ユダヤ思想の動きを受けて1907年にアメリカへと移住。もちろん移住後にも音楽は続けており、若手の超テクニシャンかつ前衛的な作曲家として華々しい成功を収めたらしいんですが、突然引退。その後はほぼ隠遁生活と言っても良いぐらいで、小さな音楽学校を運営しながらほぼ仙人状態。1930年に学校を設立したというのだから、70年以上の「余生」を過ごして亡くなったようです。余生、長すぎだろ、っていう。




 たぶん、そんな変人でも無い限り彼の作品は今こうして録音されて、聴かれることなんて無いんでしょう(聴いた感じ特に「ここがスゴい!画期的だ」という曲は無いし)。ただ、1970-1980年代の作品には「ショパンとラヴェルとドビュッシーを混ぜたところにスクリャービンの神秘主義のエッセンスを3滴ほど垂らしました」みたいなところがあり、全然退屈しないで聴けます。っていうか、良いですね。坂本龍一みたい!とか言ったら教授は怒るでしょうか。その反面1910年代、アメリカで脚光を浴びていた頃の作品はかなり攻撃的です。題名も《Suicide in an Airplane(飛行機にのって自殺)》とかすごい(ピアノの低音を乱打、乱打。音のかたまりが密集し、早すぎたトーンクラスターみたいになっている)。↑に挙げたCDの中では《A Morning in the Woods》という1971年の作品がとても美しく、思わずアンニュイになってしまう朝の雰囲気にぴったりでありました*1




*1:追記;《A Morning in the Woods》OggVorbis形式の音源。http://iberia.ath.cx/music/20030222fuwa_ornstein_morning_in_the_woods_04.ogg





コメント

  1. ��「ショパンとラヴェルとドビュッシーを混ぜたところにスクリャービンの神秘主義のエッセンスを3滴ほど垂らしました」

    すげー良さそうじゃないか・・・買ってみたくなってしまった・・・

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」