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東浩紀『存在論的、郵便的』




存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて







 「アナタの抱いている問題関心とこの本には通じるものがあると思う」という薦めからこの本を読み始めたのだが、その予想は大当たりで「東がデリダから読み取ったもの」と「私がアドルノから読み取ったもの」にはすごく近いものがあったと思う。しかし「デリダとアドルノの近さ」なら誰にだって指摘できる。例えばこの本で紹介されている、ジェイムズ・ジョイスの「He War」の解釈不能性(解釈してしまったことによって、失われてしまう多様性)の議論は、音楽を直接的に語ろうとすることで音楽から「たゆたうような流れ」や「浮動的なもの」が失われてしまう、というアドルノの議論と大きく重なって読める。また、後期のデリダが書いた暗号のようなテキスト、「思考不可能なものを考える」ための方法論も、「思考不可能なものを考える」ために生み出された(と私は解釈している)アドルノ(がベンヤミンから借りてきた)の「布置連関」と通ずるものがあると思う――だから、すごくこの本が言おうとしていることは読めてしまった。東がデリダから読んだものの大半は、私はアドルノから読んでいる、そんな風に言い切っても良いかもしれない(もちろん、東の正確かつハードな仕事と私のあまりにもちっぽけな仕事との間には比べ物にならないほどの差があるわけだが。しかし、これはすごい仕事である)。アドルノとデリダには「近いものがある」。だからこそ私は、この二人の距離を埋めずにそのままにして、顕微鏡で見るようにして拡大していかなくてはならないのだと思った。そうすることで、もっと言葉を明確にすることができる。ちょうど今そういう作業をちょこちょこと行っているところだったので、これはとても勉強になった。こんなに精密な仕事だし、良い本なのになんで全然グッとこなかった不思議なぐらい良い本です。





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