スキップしてメイン コンテンツに移動

Th.W.アドルノ『新音楽の哲学』




新音楽の哲学

新音楽の哲学







 読み終えたので、改めて本の紹介から。1949年に発表されたこの『新音楽の哲学』は、アーノルト・シェーンベルクとイーゴリ・ストラヴィンスキーという20世紀を代表する二人の作曲家を鮮やかに対比し、二人の音楽を媒介とすることによって、社会学・哲学・心理学……etcを語ろうという音楽論である。タイトルに用いられている「新音楽」という言葉、こちらはドイツ語では「neuen Musik」となっており「現代音楽」という風にも訳せる(そして、日本語の音楽的なタームとしての「現代音楽」と「neuen Musik」とでは意味的にも一致する。またその意味の曖昧さにおいても)。


 日本語訳が出るのは龍村あや子の訳で2回目。以前の訳は永らく絶版状態にあったから、私も今回初めて読んだ。細見和之が紹介するところによれば「シェーンベルクを擁護し、ストラヴィンスキーを批判する本」と聞いていたので、私もそのようなつもりで読みはじめたのだが、実際読んでみるとそんな単純な二項対立は展開されていなかった(というか、そんな単純な話をアドルノが書くわけないのだけれども)。

 さて、ここからは私が読んだこの本の要点。これは「12音音楽、万歳!新古典主義、最低!」という本ではなく、むしろそのような技法の概念などかなりどうでも良くて「現代の作曲家は、どうやったら主体的に、かつ暴力的にならずに作曲ができるんでしょうね?」とか「どうやったら自律的な音楽が書けるようになるんでしょうね?」という問いを巡って言葉が書き連ねてあるもの、だと思う。ストラヴィンスキーの過去の音楽的な「素材」を異化し、空虚な響きしか生み出さない音楽(アドルノは彼の音楽を“幼稚主義”――子ども時代の遊びへの退行だ、とする)がそこで批判されるのは当然予想される。けれども「12音音楽という新しい手法を発明したシェーンベルクも、結局主体的な作曲なんかできてなかったんじゃねーの?」と、特に12音音楽の「規則」*1へと厳密に則しようとした時期のシェーンベルクへと疑いのまなざしを向けるのである。


 12音音楽を“主体的に”書こうとすればするほど、シェーンベルクは逆に12音音楽へと支配されていく(ここでヘーゲルの『精神現象学』より「主と僕」の喩えが差し込まれる)。作曲しようとすればするほど、シェーンベルクは12音音楽という素材に囚われ、主体性は奪われてしまう。しかし、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンのように「着想」を元に音楽を書くことは今や不可能である(自らの内から自然と生み出されてくるような音楽の素材は、今や枯渇してしまった!)。書けば書くほど、音楽から(あるいは社会から)疎外されていくシェーンベルクの姿を、アドルノは悲劇的に描こうとしているようにさえ思える。そして、12音音楽という技法の限界もここで明らかにされる。


 晩年のシェーンベルクは調性へと回帰することもあった。アドルノはそのようなシェーンベルクの歩みを「退行」と見なさない。「後期シェーンベルクの偉大な要素は、12音技法によるものでもあり、同時に12音技法に抵抗して得られたものでもある」とアドルノは言い、シェーンベルクの晩年は、支配を受けない自由な作曲家としてベートーヴェンやバッハと同じような地点に辿りついたのだ、と高い評価を与える。ここまで来ると「ストラヴィンスキーは最初から自由だったのに……」という疑問は浮かぶし、また「結局“シェーンベルク万歳、ストラヴィンスキー最低”じゃんか」と思われる方がいらっしゃるかもしれない。


 しかし、アドルノが抱いた思想の主軸をなしているものは「近代において人間はどのように人間的でありうるのか?」である。それを考えると、最初から最後まで素材との遊戯に耽り、人間的なものを傷つけ続けるストラヴィンスキーと、自ら生み出した技法にさえ批判的なまなざしを向け葛藤し続け(そして死んだ)たシェーンベルクのどちらを持ち上げるか、は自ずと想像がつくというものだ。しかし、そこでアドルノが軍配をあげた方が「勝者」になるわけではない。主体的に音楽を書くことは「漂流する瓶に詰められた便り」を海に流す行為なのだ。それは聴衆を無視して、ひたすらわけの分からない音楽を書き続けるのとは違う――誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる音楽である。その音楽には、作曲家と聴衆との間に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている。


 ここまで一気に要約と解釈を書き連ねてきたので(長すぎて、もはやほとんどの人が読んでいないことを予想しつつ)、「この本で一番カッコ良いポイント」だと思った「まえがき」から痺れるポイントを引用を行なって文章を締めておきたい。



この本は、音楽について語っているだけにすぎない。しかしながら、対位法的な問いかけがもはや和解しがたい葛藤を証言しているような世界とは、一体いかなる状態にあるのだろうか。生の震撼や硬直が、経験的苦境がその中にまでおよばないこの場所、不気味な規範の抑圧からの避難を許すと人々が信じているこの領域においてさえも、反照しているならば、生とは今日、なんと根本的に混乱したものであることか。人々への約束が果たされるのは、彼らが期待するものを拒否することによってのみなのである。





*1:これについては十二音技法 - Wikipediaを参考にされたい





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...