スキップしてメイン コンテンツに移動

カール・マルクス『資本論』(三)




資本論 3 (3) (岩波文庫 白 125-3)
マルクス
岩波書店
売り上げランキング: 48974



 巻を進めるごとに、読み飛ばしていくページが多くなっている気がする「マルクス資本論マラソン」だが、漸くここで全体の3分の一にたどり着く。ヘーゲルを読み……マルクスを読み……って「今何時代?お前、何共闘?」という感じだが、これはこれで面白い。しかし、なにひとつ賢くなった気がしない。数式が出てくるとついクセで読み飛ばしてしまう。なのに「マルクスを読んだ」とか言っちゃって「やーねー」という感じである。「インテリぶりやがって」とどこかからお叱りの声がかからないのが不思議でならない。2ちゃんねるのヲチ板の皆さーん!ここに乙女なんかより叩きがいがあるインテリぶった勘違いサラリーマンがいますよー!!と声を大にして言いたい。


 第3巻は2巻に引き続き「資本家はどうやって剰余価値を生み出しているのか」についてのお話から。これを端的にまとめてしまうと「どんなことがあっても資本家がまるもうけする構造ができちゃってるんだよー」という話になると思う。例えば、ある工場で時間労働制を採用したとする。「働いた分だけお金をあげよう」。これはとても納得がいくもののように感じられる。しかし、そこでの時給は納得がいかない額に設定されている。すると、普通に8時間ぐらい労働したぐらいでは、とてもじゃないが労働者たちは生活することができない。必然的に労働時間は長くなる――資本家が設定した時給のなかには既に「不払労働」が埋め込まれているのだ、という具合にマルクスは告発を行う。


 次にマルクスは、労働者から不当に労働力を搾取し、資本を蓄積した資本家がどのようにその資本を再生産していくのかを見ていく。ここでも図式は一緒である。勝ち続けるのは常に資本家なのであって、労働者は常に負け続ける。たとえ、労働賃金があがって労働者の生活水準が向上したとしても、その賃金が消費されることで儲けるのは資本家なのだ――石炭工が買うパン。これも資本家が労働者に作らせたものなのだから、一旦労働者に手渡された資本はすぐさま別な資本家へと吸い上げられてしまう。あたかも資本が資本家たちの間で循環するかのように。


 この記述は、かなり面白く読めた。マルクス主義は死んじゃったかもしれないけど、マルクスはまだ生きていて、読む価値があるかもなぁ、と強く感じてしまうようなところである。マルクス・イズ・ノット・デッド。19世紀のイギリスの工場労働者の労働環境と、私個人の労働環境には違いがありすぎるけれども「大きな資本の間で大きなお金が動いている」とか「見えないお金がどっかで動いている」とかいう感じは具体的にイメージできる。それを不当だ、とか怒るわけではないけれども、これを読んでてより詳しくイメージができるようになったような、そんな感じがする。だからと言って、別に得するわけではないのだが。


 資本の蓄積過程において、権力は囲い込みや暴力的な行為によって土地を奪い、そして経済活動の領域を広げ、土地を追われた牧童や農民が都市の労働者となった――という説明の箇所――これは世界史の教科書にも載っているような説明だった気がする――も面白かった。当然、土地を追われた牧童や農民が皆、新興工業へと吸収されるわけがなく、受け皿がなかった人もいて、こういう人たちは浮浪者とか乞食になってしまったそうである。彼らのように経済活動に参画しない人びとを、時の権力はどのように扱ったか――マルクスはこれを16世紀イギリスの法律を見ながら明らかにしていく。



ヘンリー8世、1530年。老齢で労働能力のない乞食には、乞食鑑札を与えられる。これに反して、強健な浮浪人には、鞭打ちと拘禁が与えられる。彼らは荷車のうしろに繋がれて、身体から血の出るまで鞭打たれ、その後に、その出生地または最近3年間の居住地に帰って「労働につく」ことを誓約せねばならない。なんという残酷な皮肉!ヘンリー8世の第27年の法律には、前の法規が繰り返されるが、新たな補足によってさらにきびしくされる。再度浮浪罪で逮捕されれば、鞭打ちが繰返されて、耳が半分切取られるが、累犯3回目には、当人は重罪犯人で公共の敵であるとして、死刑に処せられることになる。



 職がなく、街をぶらぶらしているところを3回見つかったら死刑!ほとんど鼻とアゴがやたらと尖った顔の人が出てくるマンガの世界だ。しかし、このような法律は16世紀のヨーロッパ諸国に普通に見られていたという。マルクスはこれを非難する。しかし、中央集権的な王権によるこれらの暴力によって、近代が爆発的に成長する礎は築かれた、ということが言えるのであって全否定することはできないものだろう。つくづく「近代って因果なものよねぇ」と感じてしまう。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か