スキップしてメイン コンテンツに移動

真木悠介『自我の起源――愛とエゴイズムの動物社会学』




自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)
真木 悠介
岩波書店
売り上げランキング: 8583



 真木悠介(aka見田宗介)の著作を読むのは大学2年の時『時間の比較社会学 』を読んで以来。当時の私は今のようにアドルノではなくて「自我」とか「私」とかいう事柄に問題関心があったから、『時間の……』はかなり衝撃的で頭がクラクラするような著作だった。で、最近、岩波現代文庫に入った『自我の起源』を読んでまたクラクラと来てしまった。これはすごい論文である。私は初めこのタイトルから「近代以降の自我を巡る論文なのかな」と想像していたのだが、時代はもっと遡る。


 どこまで遡るかというと、原始生命の誕生まで。この原始生命から現代までの進化を辿りながら、自我(私である意識)とは何なのか、どのように発生したのだろうか、を整理・分析するというものすごい仕事なのである。社会学の著作でここまで巨大なスケールで描かれたものに出会ったのはこれが初めてだ。そこでは人類学、生物学、脳神経学、遺伝子学……といった様々な諸学問から出た説に言及されるのだが、その膨大な文献を整理し「錬金術か!」というほどの分析を生み出す著者の能力には感嘆してしまう(このすごさについては、真木に教えを受けた大澤真幸も解説で述べている)。この仕事は「日本社会学界のゴッド・ファーザー」の名に相応しい……。



カルロス・サンタナのアルバム『キャラバンサライ』の第1曲は「転生の永遠のキャラバン」Eternal Caravan of Reincarnationと題されている。インドでの修行時代にサンタナに霊感を与えたグルの教えは……(P.1)



 書き出しからしてこのカッコ良さ。この冒頭の一説だけでも「Love Munesuke!」と叫びたくなる。しかし、さらに恐ろしいのはこの優れた論文が全5部に渡る「自我の比較社会学」という仕事の、最初1部の“骨組み”に過ぎないということである(これは『補論1』で明らかにされる)。読みながら「ものすごく大事なことをたくさん言っている割にはどうしてこう不親切なほど早足に進んでしまうのか」という印象はあったのだが、骨組みだというならばこれは納得がいく。全5部が完成したらどれだけのヴォリュームになるか想像もつかないが、絶対に完成させて欲しいと思った。


 ……と、興奮が止まらない本であったのだが、やはり骨組みのせいか初学者向けの本ではないかもしれない。気をつけていないと面白い部分をスーッと通り過ぎてしまうような文章で全編が綴られているし、説明は結構端折られている感じがする(良く言えばまったく無駄のない文章なのかもしれないが)。ただし、著者が整理する諸学問分野の話がイチイチ興味深い。だから、科学の本としても読めてしまうと思う。


 個人的に最も心に残ったのは『利己的な遺伝子』で有名なドーキンスの『延長された表現型』という著作を紹介する部分だった。ドーキンスはさまざまな生命体の活動を「生成子(≒遺伝子)が繁栄するための表現」としている前提をまず押さえつつ、次にこの部分を少し引用してみる。



生成子の<表現型>は、個体「それ自体」には止まらない。たとえばより安全な巣をつくる個体はより安全に生存し生殖し、したがって生成子をより確実に再生産する。動物の巣の性能の差異もまた、生成子の増殖率の差異を帰結する。この場合動物の「巣」もまた生成子の、延長された<表現型>と見ることが出来る。ビーバーのダムは何千平方メートルの規模で一体を氾濫させる。この巨大な貯水湖もまた、ビーバーの体内にある生成子の<延長された表現型>である。(P.131)



 ここであげられるビーバーの<延長された表現型>は、同種に対して働きかける表現である。しかし、自然界にはもうひとつ異種に対して働きかける<延長された表現型>がある、とドーキンスは言う。



ハリガネムシの幼虫はミツバチなどに寄生するが、成虫は水中で生活するからどうにかして水へと回帰しなければならない。感染したミツバチが水たまりの方へ飛んでゆき、まっすぐ水中にダイヴィングして死んでしまったことが観察されている。もちろんふつうのミツバチにはそのような水への憧憬はない。ハリガネムシがミツバチの何かの系統に作用して、ミツバチを運転している。このミツバチの行動は、ハリガネムシの体内の生成子の表現型である。(P.132)



 この同種へ働きかけるもの、異種へ働きかけるもの、これら2つの<延長された表現型>の例から真木は、ごくシンプルに2つの問いを提示しているように思う。ひとつめは「生成子の乗り物」である生命体の「個-性」はどこまでで区切れば良いのか、ということ。ビーバーの「個-性」は一見、その毛に覆われた皮膚と空気との境目によって区切られる、かのように見える。が、それを「生成子の乗り物」とすることによって、自明のように見える区切りは崩れてしまう。ビーバーが作るダムはビーバーを構成する生成子によってプログラミングされたものであり、実のところ生成子の表現である、と言える。だとするならば、「乗り物」も生成子の表現なのだから、「個-性」の区切りを「乗り物の皮膚と空気の境目」に置くことはできないであろう……云々。


 もうひとつの問いはもう少し実存的な意味合いを持つ。それは個の主体性の問題である。真木はハリガネムシの例のほかにもう少し分かりやすいものあげているのでこれも引用しておく。



風邪をひくとくしゃみをするのはただの偶然か、それともウィルスが他の宿主へ植民する機会を増すために人間の身体を操作する結果であるのか。(P.133)



 これは少しSF染みた話に感じられるかもしれない。が、私としては結構グラッと来る表現だった。「くしゃみをする」という能動的な表現が、「(ウィルスによって)くしゃみをするように作用されている」という受動態へと転化する。自明であるようなものがここでまた揺らぐ。<私>が行う活動は、私の生成子の表現ばかりではなく、私ではない他者(他ウィルス?)の表現でもあり得る。しかし、実際にはそこでは「操作されている」という意識は生まれない。<私>はあくまで<私が行う行動>として、くしゃみをする。この不思議さ。そして<私>と<ウィルス>の関係性は、そのまま対人的な(一般的な)社会のアナロジーにもなっている。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...