スキップしてメイン コンテンツに移動

読売日本交響楽団第480回定期演奏会@サントリーホール




指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ


ソプラノ : インドラ・トーマス


アルト : シャルロット・ヘルカント


テノール : ロイ・コーネリアス・スミス


バス : ジェームズ・ラザフォード


合唱:新国立劇場合唱団


【曲目】


ベートーヴェン/荘厳ミサ曲「ミサ・ソレムニス」



 半年ぐらい楽しみにしていたスクロヴァチェフスキの演奏会に行く。曲目はベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)》で、後期ベートーヴェンの名曲のひとつにも関わらず、演奏機会があまりないため今回は見逃せなかった。「第9と並ぶ素晴らしい曲なのに、なぜ演奏されないのか」と公演前に偶然会った知人(高校のオーケストラの先輩)と話をしたけれども、初めて生演奏に触れて気がついたことがある。「この曲、めちゃくちゃ難しい……」と。第9もかなりの難曲であるのだが、《ミサ・ソレムニス》の方が2割増しで難しいのではないか。技術の限りを尽くしたような複雑なフーガはもちろんのこと、宗教曲という性格の難しさも感じるし、また「ベネディクトゥス」における長いヴァイオリン独奏の出来や、歌手の力量によってもまるで音楽の聴き映えが変わってしまう。





 そのような観点からすれば今回のスクロヴァチェフスキの演奏はとても良かったけれど、一生心に残るような水準に達してはいなかった。私の耳にはソプラノがいささか艶やか過ぎて感じたし、前半はやや散漫な印象を受けた。それでも中盤でテンポが何気なく変化する(劇的な効果があるわけではない)箇所で、スクロヴァチェフスキが音楽に与えている呼吸を強烈に感じ、そこで涙が出てしまう。彼が得意とするブルックナーのように、肌を震わすほどの圧倒的な音量の音楽は《ミサ・ソレムニス》には存在しない。しかしながら、彼の音楽は必ずや琴線に触れてくる。その秘密が彼の呼吸にあるのではないだろうか。細やかなアーティキュレーションやダイナミクスの変化に呼吸は宿り、そして音楽に生命を与えるのだ。


 


 思うに、そう言った“生きた音楽”に触れたときの感覚とは、安易な癒やしではありえない。そうであるからこそ、私は決して安くはないチケット料を払い、電車を一時間も乗り継いでコンサート・ホールまで足を運ぶのだろう。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か