スキップしてメイン コンテンツに移動

イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #3




Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
Frances Yates
Routledge
売り上げランキング: 36713



今回は、第1章の続き「初期キリスト教の教父たちはヘルメス・トリスメギストスをどのように扱っていたのか」について語っている部分からはじめます。イェイツは3世紀のラクタンティウスによって書かれたものと、4世紀のアウグスティヌスによって書かれたものをとりあげています。まずはラクタンティウスについて。ヘルメスという人物がたくさんの書物を残した偉大なエジプトの賢者である、という認識が生まれていたということについては前回見たとおりです。彼もまたこの認識を継承していて『信教提要(Institutes)』という本ではヘルメスについて何度も言及していたようです。彼はヘルメスを異教徒に対してキリスト教の真理を伝えるために有効なものとして考えたんだとか。





ラクタンティウスは『アスクレピウス』のなかにある「神の息子」という表現に着目し、神をキリスト教のように「父親」として捉え、キリストの到来を予言するものとして解釈していました。しかし、実際にはこの「神の息子」という表現はデミウルゴス(プラトンの『ティマイオス』にも出てくる言葉です。元来は『製作者』的な意味で『ティマイオス』においては世界を想像したものを指し示す言葉として扱われる)を表したものだったそうです。つまりは、ここでも誤読が発生しているのですね。また、この「神の息子」という言葉は『アスクレピウス』だけでなく『ポイマンドレス』という本でも登場し、そこでは世界を想像するための言葉を指し示す言葉という風になっている。こうした解釈によってラクタンティウスは、ヘルメスをキリストの到来を予言するものと見なしていた、とイェイツは言います。もともとこのラクタンティウスは異教徒に対して厳しく、偶像崇拝を批難し、また悪魔というものも堕天使たちによる魔法によって遣わされたものだ、という風に考えていたのですが、ヘルメスだけは特別だったようですね。キリスト教徒であり続けることを願ったルネサンスの魔術師たちがラクタンティウスを好ましい教父と考えたのも、こうした理由があった、というのがイェイツの説明です。





一方、アウグスティヌスのほうはそんなに単純ではありませんでした。彼は『神の国(De Civitate Dei)』のなかでヘルメスは偶像崇拝に関係している、として批難していたようです(そこでは『アスクレピウス』のなかに登場する、エジプト人がその魔術によって神々の像へと命を与える様子が引用されているんだとか)。アウグスティヌスは魔術全般に対して攻撃をしていたそうですが、そのなかでもアプレイウスの精霊についての見方に警戒していたそうです。123年頃に生まれたというアプレイウスは、大変高名な教養人でエジプトの魔術についても詳しかった人物。彼の書いたものでは『黄金のろば』という小説があり(岩波文庫にも入っています)、この内容は主人公が悪いことをした罰でロバに姿を変えられてしまい、エジプトのイシスのところまで旅をして人間に戻してしまう、というもの。こういうのが異教的で敬虔さを欠いたものと見なされた、というわけですね。なお、このアプレイウス、『アスクレピウス』の翻訳者(ギリシャ語からラテン語への)と噂されていたそうです。しかし、それが本当かどうかは確かではない。少なくともその仕事はアプレイウスにとって魅力的なものであっただろう、とイェイツは言っています。





ただ、なんだかんだ言いつつアウグスティヌスもヘルメスがキリスト教の到来を予言していたことは否定していなかったそうです。それどころか「ギリシャの賢人や哲学者よりもずっと昔の」権威としてヘルメスに重きをおいていたんだとか。また、モーセの時代から三世代にわたる系譜学のなかにヘルメスを置き、ヘルメスはモーセよりもあとの人なのか? それとも同時代だったのか? またもやモーセより前の人だったのか? と議論を提起していたそうです(まるで、好きな人だからこそイジわるしちゃうような態度ですね)。





ここまでラクタンティウスとアウグスティヌスについて見てきましたが、イェイツ曰く、昔の教父には他にもヘルメス主義を学んでいた人がいたそうです。このうちアレクサンドリアのクレメンスという人は「ヘルメスの本は42冊あり、そのうち36冊がエジプト人の哲学関するもの残りの6冊は医学に関するものだ」と述べています。しかし、これらの多くは後世に伝えられておりません。ルネサンス期のヘルメス読者たちもまた、残された『アスクレピウス』や『ヘルメス文書』を聖なる書物群の重要な生き残りとして信じていた、とのこと。長くなって参りました。今回はここまでにいたします。次回からようやく15世紀のお話に入ります! メディチ家とか出てくるよ!





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」