スキップしてメイン コンテンツに移動

柴山潔 『コンピュータアーキテクチャの基礎』




コンピュータアーキテクチャの基礎
柴山 潔
近代科学社
売り上げランキング: 171792



私がメインフレーマーで、かつ、COBOLerである、という告白をすると情報処理業界におつとめの方は「え、いまだにCOBOLなんかやってるの?」とか「まだCOBOLなんか残ってるんですか?」とビックリされることがあります。情報処理業界におつとめでない方のために補足しておきますと、COBOLというのは大昔にアメリカで作られた事務処理用のプログラミング言語で、金融機関のプログラムなんかは未だにこの言語で書かれてたりするんですよ~、とか言うと私のつとめている業界がだんだんまるわかりになってきてしまいますが、え~っと念のため、先日大障害を起こした銀行さんではございません(でも、あの障害の事後レポートを読んで『うわ~、絶対この現場にいたくね~』とものすごく実感してしまうぐらいにはそれなりに世界観が近い)。あと、メインフレーマーというのは、一台一億円ぐらいするスーパーコンピューターを使って仕事している人の総称です。ものすごくパワフルで、信頼性が高いマシンなんですが高価なので限られた業種でしか使われてません。ぶっちゃけ研究機関とか金融機関でしか持ってない。





日本の金融機関のシステム化がはじまったのが70年代のこと。当時は今と機械が違いますから紙のカードに穴あけたものがプログラムだったりして(会社を掃除してるとそういうのが出てきたりして、面白い)今では想像もつかない世界なんですが、そういう機械はさすがに残ってないので問題なし。ただ、大障害を起こしてる銀行さんにも関わりますけれど、80年代後半ぐらいのモノは未だに残ってたりして、そこが問題になってくる。一旦作られちゃったモノは資産になっちゃって、簡単には捨てられませんし、代わりを作ろうと思っても「今と同じように作ってほしい」と言われると「え、当時作った人じゃないからわかりませんよ!」となってしまい「じゃあ、今のを使おうか」となったりする。こうした資産は「レガシーシステム」と呼ばれていて、今後どうしていくのか、については業界で活発な議論が行われています。その多くは、大きなシステム屋さんが「ウチならこんな感じでスムーズにソリューションを提供しますよ!」という営業のお題目なのだと思いますが。





……と、メインフレーマーもダラダラと会社に飼われて過ごしているわけではないのですね。今後こういうのは変わっていくのだと思いますが(メインフレームで動くIBMのz/OSにはUNIXと互換性があるんだとかなんとか)しかし、現場の人間は「今後」とか言ってられないこともある。例えば、人的資産についても問題が出てくる。まだ景気がよくて、コンプライアンスとかが問題にならなかったころに、バリバリのプログラマー・設計者だった人たちは、ものすごい勢いでモノを作っていた、と聞きます。そうした人たちと、保守ベースに乗っかってきた人たちとでは、知識や技術に差がでてきてしまう。そして年月が経ち、システムのパイオニアが偉くなって別な部署の管理職になってしまったりすると、気がついたら自分の部署に技術者らしい技術者がいなくなったりするわけです。業務には詳しいけど、システムはぜんぜんわからない人しかいない、とかね。





『コンピュータアーキテクチャの基礎』という本は、情報工学系の大学生が一年生のときに読んだりする教科書として書かれたものだそうですが、こんな専門書を私が読んだのもまさにそうした現状に直面したからなのでした(ああ、長い前置きであった!)。気がついたら自分の師匠みたいな人が人事異動でいなくなってて、アセンブラやバイナリの話を質問する相手がいなくなってた! そのうえ、そういう方面に興味を持つ後輩が入ってきちゃった! となれば、自分で勉強するしかありません。コンピューターはどういう風に計算をおこなうのか、どういう風にデータを保持するのか、という基本的な動きは基本情報処理試験を受験する際にも勉強したことですが、試験なんか暗記ですから必要最低限の説明しかされてこなかったし、理解も浅かった。今、メインフレームで5年ほどの経験を積んで、ハードウェアとソフトウェアの境界線上の話を読むと断然理解度が違って面白かったです。





JavaとかRubyとかPerlとかの人には、あまり縁がない話だと思いますが(そうでもないのかな。でも偉い人はバイナリを意識したプログラミングをしろ! って言うよね)これを理解すれば、仕組みを説明できる、という快感を得られることは間違いありません。水道の仕組みが分からなくても水は飲めるし、TCP/IPの仕組みがわからなくてもYoutubeは観れます。なので、コンピューターの基本的な仕組みを理解してなくてもコンピューターは操作できるし、プログラムも作れてしまう。でも「仕組みが説明できないモノを作って、それでお金をもらって良いのか? それって技術者として正しい態度なの?」とか思ってしまうこともあるわけで、必須の読書ではないけれども、無駄な読書ではなかったかな、と思いました。





なお、この手の本の定石通り、コンピューターの歴史から話がはじまるのですが、ここも相当マニアックな記述があって面白かったですね。磁気ドラム(初期の記憶装置)とか、なにそれ、って感じですし、やはり、ジョン・フォン・ノイマンは偉大であるな、と思います。アインシュタインは物理学を変えたかもしれませんが、20世紀後半からの社会革新にはコンピューターがなくてはならなかったと思うのですが、そう考えるとアインシュタインよりもノイマンのほうが我々の生活に直で影響を与えているのでは? とも考えられる。そこで「僕らはみんなノイマンのこどもたちなんだ……」と白目でつぶやきたくなりました。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か