スキップしてメイン コンテンツに移動

カール・シュミット 『政治神学』

政治神学
政治神学
posted with amazlet at 13.01.06
カール・シュミット
未来社
売り上げランキング: 320,746
はじめ、なにが書かれているのかよくわからなかったのだが、2回ぐらい読んだらそれなりに読めた。付録についてくるカール・レーヴィットによる「シュミットの機会原因論的決定主義」という論文を読みながら「政治神学」を振り返っていくと、なにが問題にされているのかがつかめると思われる(『政治神学』自体はあっという間に読み終わってしまうほど短い)。

たとえば戦争や紛争がおきた、とか、現行の法律にはそぐわない現実がある、とか、法律が意味をなさなくなってしまった状態(例外状態)において、主権者による決定が必要となる、とシュミットは言う。法律が意味をなしているとき、法律に従って国家におけるもろもろを運用していけばいいので、決定は意識されない。では、どのように主権者は決定をおこなうのか? そもそも、主権者とはだれで、なぜ、ソイツが決定をおこなって良いことになっているのか?

この問題を検討する前にシュミットは「いや、主権者がしゃしゃりでてくる前に、法律のほうを修正すれば良いんじゃないの?」と主張する立場に批判を加えている。ここは結構クドクドと書かれているのだけれども、一言でまとめるならば「いや、法律を修正するのにも決定する人がでてくるでしょうが!」といったところであろう。主権者の問題は避けられないのである。

で、本題の主権者はだれか? その正当性はいかに、といったところの変遷が辿られることとなる。ここで例外状態における決定が神学における奇蹟となぞらえられているのは、それが主権者をあらわにさせるから(なのだろう、たぶん)。絶対王政の時代なら話は簡単で、君主が神的な立ち位置にいて主権を振る舞っていた。そこには有無を言わせない正当性があった。その後、民衆に主権が移ると、人間はみんな善じゃん、とか、一般意志、とか、民衆主権の正当性を支える思想が台頭する。

ただ、みんなで話し合ったからそれでOK、正統だよね! みたいなのって、じゃあ、誰が責任とるんですか! みたいな話にもなる。そこでシュミットは、そもそも正当性とかっていらないんじゃないの? 議会つくって話し合いとかする必要ないじゃん? むしろ、決定が大事なんだよ! という人たちについて検討する。このとき検討されるのが反革命(つまりアンチ民主主義な)カトリック系思想家たちだ。

このパートで紹介されるスペインの思想家・政治家、フアン・ドノソ・コルテスが強烈で、本書のハイライトを演出しているといってよいだろう。ドノソ・コルテスの人間観は、性善説的な考えと真っ向に対立する。人間の本性は善どころか、極悪である。そんな人間に議論させて政治なんかやらせても破滅が待ってるだけである、政治参加しようとするブルジョワジーを見よ、ヤツらは無責任な討論をするばかりではないか! 王権なきあと残る政治とは、独裁しかない!!  ドノソ・コルテスの政治思想とはこのようなものだ。

シュミットによるドノソ・コルテスの評価が面白いのは、ここにプルードンやバクーニンなどの無政府主義者との比較が入るところだ。カトリック的な権威主義と、無政府主義は対立する価値観を持つ。が、いきつく先は一緒なのでは、とシュミットは言う。バクーニンは、世の中が堕落しているのは人間の権力欲・支配欲であり、欲を悪だという教会こそが権威そのものだし、こうした欲の元凶だ、これを解体するには根本的に父権的な家族制度を解体して、母権制へ復帰するしかない!(楽園への回帰! フリー・セックス!)と主張する。これに対してドノソ・コルテスも、自分の理想が遂げられたときには、そもそも政治的なものも消失してしまって、楽園的なものにたどり着くであろう! と予見していたという。

ドノソ・コルテスが願った独裁も「だれによってなされるのか?」の問題があると思うし、そのへんよくわらないのだが面白い本だった。本書で問われている正当性の問題は、決定の妥当性をどのように判断するのか、を検討するニクラス・ルーマンの論文にも通じて読めるような気が。付録の論文を読むと、シュミットが「政治的なロマン主義者は、討論ばっかりして、政治をやるのではなくて、政治っぽいことをやることに満足してるようで良くない!」みたいなことを考えていたようで、そのあたり、現在生活している世の中のことと見比べると、ふむ〜ん、と思いました。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か