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2012年に読んだ本を振り返る

  1. 『要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論』
  2. 菊地成孔 『スペインの宇宙食』
  3. Frances Yates 『Giordano Bruno and the Hermetic Tradition』
  4. 桜井久勝 『会計学入門』
  5. フランコ・サケッティ 『ルネッサンス巷談集』
  6. 飯田泰之・中里透 『コンパクト マクロ経済学』
  7. 阿部和重 『シンセミア』
  8. アリストテレス 『動物誌』(下)
  9. クラリッセ・リスペクトール『G・Hの受難 家族の絆』
  10. 黒羽清隆 『太平洋戦争の歴史』
  11. ガブリエル・ガルシア=マルケス 『族長の秋』
  12. 慧皎 『高僧伝』(1)
  13. 進士五十八 『日本の庭園 造景の技とこころ』
  14. ジャン・カヴァリエ 『フランス・プロテスタントの反乱 カミザール戦争の記 録』
  15. いとうせいこう 『世界のポップス 1991』
  16. 慧皎 『高僧伝』(2)
  17. 中原昌也 『悲惨すぎる家なき子の死』
  18. Walter Isaacson 『Steve Jobs』
  19. 『ソフトウェアアーキテクトが知るべき97のこと』
  20. 村上春樹 『1973年のピンボール』
  21. ヴァルター・ベンヤミン 『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』
  22. プラトン 『メノン』
  23. 平田篤胤 『霊の真柱』
  24. トーベ・ヤンソン 『ムーミン谷の彗星』
  25. ルイス・フロイス 『ヨーロッパ文化と日本文化』
  26. マイケル・ファラデー 『ロウソクの科学』
  27. ウラジーミル・ソローキン 『愛』
  28. 『プログラマが知るべき97のこと』
  29. 芦屋広太 『エンジニアのための文章術再入門講座 相手を動かすドキュメント作成の実践テクニック』
  30. マイケル・ギルモア 『心臓を貫かれて』
  31. アンドルー・ワイル 『癒す心、治る力 自発的治癒とはなにか』
  32. 細島一司 『COBOL ポケットリファレンス』
  33. 末崎真澄(編) 『図説 馬の博物誌』
  34. アテナイオス 『食卓の賢人たち』
  35. 佐藤竜一 『エンジニアのためのWord再入門講座 美しくメンテナンス性の高い開発ドキュメントの作り方』
  36. ニッコロ・マキャヴェッリ 『フィレンツェ史』
  37. J. D. サリンジャー 『ナイン・ストーリーズ』
  38. 広瀬立成 『朝日おとなの学びなおし 宇宙・物質のはじまりがわかる 量子力学』
  39. ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』(1)
  40. グスタフ・ルネ・ホッケ 『迷宮としての世界 マニエリスム美術』
  41. Wheelock's Latin 7th Edition
  42. 村上春樹 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』
  43. ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』(2)
  44. 芦原義信 『街並みの美学』
  45. 『論語』
  46. Lorraine Daston, Katharine Park 『Wonders and the Order of Nature 1150-1750』
  47. 宮腰忠 『高校数学+α:基礎と論理の物語』
  48. Joscelyn Godwin 『Robert Fludd: Hermetic philosopher and surveyor of two worlds』
  49. ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』(3)
  50. マイケル・C・フェザーズ 『レガシーコード改善ガイド』
  51. 『JOJOmenon』
  52. 澤井繁男 『魔術と錬金術』
  53. カルロス・フエンテス 『脱皮』
  54. パウル・ツェラン 『パウル・ツェラン詩文集』
  55. マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』(1)スワン家の方へI
  56. 飯田泰之 『飯田のミクロ 新しい経済学の教科書1』
  57. ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』(4)
  58. T. H. ガスター 『世界最古の物語: バビロニア・ハッティ・カナアン』
  59. ジョスリン・ゴドウィン 『キルヒャーの世界図鑑: よみがえる普遍の夢』
  60. 『歎異抄』
  61. ピーター・バラカン 『魂(ソウル)のゆくえ』
  62. 塚本勝巳 『世界で一番詳しいウナギの話』
  63. 『古事記』
  64. 篠原資明 『空海と日本思想』
あけましておめでとうございます。新年一発目の記事ですが、2012年に読んだ本の振り返りになります。英語の本を読んだり、ラテン語の勉強をしてたり、数学をやってたり、思想史系の論文を読んだりしていたもので、昨年は日本語の本を読む時間が少なかったな〜、とか思ってたんですが、数えてみたら再読も含めて例年と同じぐらい。一冊にかける時間が年々短くなってるかもしれませんが、読める量はどんどん多くなってたりして。技術書やらラテンアメリカの小説やら異様に多様でありますが、本年もその雑多なテイストは変わらないであろう、ということで今年もよろしくお願いいたします。

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