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アンネ=ゾフィー・ムター/バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ

バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ posted with amazlet at 09.03.29 ムター(アンネ=ゾフィー) ユニバーサル ミュージック クラシック (2008-05-21) 売り上げランキング: 122636 Amazon.co.jp で詳細を見る  先日、HMVに行った際「輸入盤が手に入るようになるまで買うのを待っていよう」と思いながら買いそびれていたアンネ=ゾフィー・ムターのアルバム(日本盤)が、2割引きになっていたので購入した *1 。昨年発売されたこのアルバムでは、ムターはヨハン・セバンティアン・バッハのヴァイオリン協奏曲第1番・第2番と、タタール出身の作曲家、ソフィア・グバイドゥーリナの《今この時の中で》というヴァイオリン協奏曲を取り上げている。数年来、グバイドゥーリナへの関心を持ち続けているので私の興味は断然後者にあった。彼女がムターに献呈した作品がどのようなものであるのか。それが気になっていた。  旧ソ連時代に不遇のときを過ごしたこの作曲家は、1980年代に入ってからギドン・クレーメルらの紹介により急速に知名度を高め、ギヤ・カンチェーリ、アルフレート・シュニトケらとともに「ポスト・ショスタコーヴィチの作曲家」と呼ばれることになった。彼女は今では現代音楽界で最も注目されている作曲家の一人である。この変化にはもちろん状況の変化(ペレストロイカとか体制の崩壊とか)の要因がある。しかし、一方で私は別な要因が彼女の作品、というか、作品作りの態度のなかにあったのではないか、と思う。  先日私は「商品ではない芸術が今日においてあるとしたら、それは個人的な祈りに近いものなのではないか……」などと愚にもつかないような雑感を記したけれど、このとき念頭にあったのは実のところグバイドゥーリナの作品だった――ロシア正教会の信仰を作品の基盤的なテーマに選び、その世界観を音楽作品のなかで描こうとする彼女の作品は、祈りに近いものであるように思われるのだ。そこでは神と私という関係性が意識される。これはとても個人的なものとして私は捉えている。それは《今この時の中で》でも同様で、(地獄のモチーフであるという)執拗なオスティナートと、(天国のモチーフであるという)長調の広がりある和声が交互に登場するなかを、独奏ヴァイオリンが迷いつつ進み、最終的に天国的な世界へと昇...

マルセル・モース『贈与論』

贈与論 (ちくま学芸文庫) posted with amazlet at 09.03.29 マルセル モース 筑摩書房 売り上げランキング: 30206 Amazon.co.jp で詳細を見る  社会学の古典的な名著をかなりいい加減に読む(かなり大量の注釈がついていたが全部飛ばした……)。新訳のせいかとても読みやすかったが、あまりに読み易すぎていい加減に読んでいたら、さくっと読めてしまった。クロード・レヴィ=ストロースやジョルジュ・バタイユ、さらにはジャン・ボードリヤールにも影響を与え……云々というということもあり、『贈与論』に言及した文章はこれまでにいくつも目にしてきたが、割とあっさりした著作で拍子抜け(そういった影響の強い本とは、大概ものすごく難しいものだと思っていたので)。それからこの本を読むまでマルセル・モースがエミール・デュルケムの甥っ子だという事実を知らなかった。彼は幼少の頃からデュルケムの教えをうけていた、とか。なんだかすごい幼少時代である。羨ましいかどうかは別として、おじさんがものすごく偉い先生ってどういう気持ちなのだろうか。  有名なので今更説明することもないかもしれないが、『贈与論』で記述されているのは、主に“未開社会”における「ポトラッチ」という慣習についてである。これはある人が贈り物をしたときに、その贈り物を破壊する、という行為である。第1章から第2章までは、この奇妙な慣習についてミクロネシアやポリネシア、インディアンなどの事例をつぶさにみていくことによって「ポトラッチは特殊な習慣ではなく、広く認められる習慣である」という分析をおこなう。この際、モースはこのような贈与行為によって社会関係が生まれていることも主張する。ポトラッチは単なる無意味な奇習ではなく、部族間や部族内の連帯を高めるために(社会の紐帯を強めるために)有用な行為である、と説く。  その後、第3章から第4章で展開されるのは「実はこの習慣、ヨーロッパにもあるんじゃないの?もちろん今もその名残があるんじゃないの?」という分析である。経済活動はそれまで人間の合理的理性が発達し生まれたものだと言われてきた――だから、ポトラッチなんか野蛮なことやっている“未開社会”では経済活動なんか生まれないのだ、みたい考えへの反証がまたそこではおこなわれる。ポトラッチにしても、他の贈与関係にしても原理...

村上春樹『約束された場所で――underground 2』

約束された場所で―underground 2 (文春文庫) posted with amazlet at 09.03.29 村上 春樹 文芸春秋 売り上げランキング: 39393 Amazon.co.jp で詳細を見る  村上春樹の(インタビュー時点で“元”を含む)オウム信者へのインタビュー集を再読 *1 。ページを開いた瞬間に「ああ、やっぱり面白いな……これは一晩で読んでしまいそうだな……」という予感があったのだが、明け方まで起きて読みきってしまった。とても強く心が惹かれる本である、と言うのも、この本に収録された信者の言葉に大きな共感を持って読めてしまうからだ。インタビューに答えている人たちの多くは、当時(1998年)30代前後で私とは世代がまったく違う、にも関わらず、彼らが入信前に抱いていた漠然とした世界に対する不安感/不信感などはとてもよく理解できる。正確に言うと、ほとんど自分の経験として受け止めることができる。だから、心が惹かれるのだ。こういった世界に対するネガティヴな反応の仕方(とくになんの出来事もないのにも関わらず、世界を憎悪する)は、ある程度普遍的なものなのかもしれない。時代/世代的なものではない。私(1985年生まれ)は90年代のちょうど半分を十代の時間として過ごしたけれども、1995年生まれでもうすぐ終わろうとしているゼロ年代の半分を十代の時間として過ごしている人にも、いるのだろう、と何の根拠もなしに推測してしまう。要はそういったネガティヴな感覚をどのようにして解消していくのか、が時代によって違う、というだけの話なのだろう。この本に登場するインタビュイーにとっては、それがたまたまオウム真理教という団体だった。私の場合は、社会学という学問だった(と思う)。私より10歳下の中学生だって、そのうちなにかを見つけたり、見つけられないまま死んでしまったりするのだろう。そうであるならば「なぜ彼らは世界を憎悪するのか」を問うのではなく、「どのように世界に対するネガティヴな感覚を解消するのか」を問うほうが重要に思えてくる。  おそらく先日再読した大澤真幸の本 *2 もまた「オウムはどのように世界に対する憎悪を解消したのか」という問題の分析を試みた本としても読める。そこでは、自らの意思を尊師である麻原彰晃に全面的に預けることによって、問題の解消を図ろうとし...

ル スコアール管弦楽団第26回演奏会のお知らせ

ル スコアール管弦楽団第26回演奏会 日時:2009年6月28日(日)14:00開演予定 場所:すみだトリフォニーホール 大ホール 曲目: R.シュトラウス/アルプス交響曲 プロコフィエフ/スキタイ組曲 指揮:千葉芳裕 入場料:全席自由 1,000円 ル スコアール管弦楽団 *1  今月の頭から6月に出演する練習がはじまった。今度の演奏会も、プロコフィエフの《スキタイ組曲》とリヒャルト・シュトラウスの《アルプス交響曲》という、なかなか重量級のプログラムなのでなかなか大変である。しかも久しぶりに全曲に出番があるし(プロコフィエフで2番ファゴット、リヒャルトで4番ファゴット兼1番アシスタント)、どちらもとても面白い曲なので苦ではないはず……と念じることによって、頑張りたい。  《スキタイ組曲》は、プロコフィエフの初期作品。ディアギレフのバレエ・リュスのために書かれたものが「これ《春の祭典》とかぶってない?」とダメ出しをくらってお蔵入り、それを管弦楽組曲として書き直したものだと言う。なんだか曰くつきの作品であるが「古代の民族が邪神と闘う」という筋書きは、たしかに《ハルサイ》とかぶっていて、ディアギレフがダメ出ししたのもなんとなく理解できる。    上にあげたのは、ワーレリー・ゲルギエフ指揮/ロッテルダム交響楽団の演奏(第1曲と第2曲の抜粋)。ゲルギエフの顔が邪神っぽくて、えらいことになっているが、何年か前にリリースされたCDに収録された演奏よりも高速のテンポ設定となっており、高揚感がすごい。微妙にアンサンブルが乱れている気がするが。 Prokofiev: Scythian Suite; Alexander Nevsky posted with amazlet at 09.03.28 Philips (2003-02-27) 売り上げランキング: 695232 Amazon.co.jp で詳細を見る  メインのプログラムである《アルプス交響曲》はタイトル通り、リヒャルト・シュトラウスがアルプス山脈を登ったときの印象を音楽化したもの(今回のプログラムは古代人になって踊ったあとに、山に登る、という壮絶なものなのだ)。ホルンだけで8本、と通常の倍以上の編成でガン鳴らす超絶スペクタル作品である。もうこれは素晴らしい作品で、私は一度練習に参加しただけで涙がでそうになってしま...

ザ・ジューグン・イアンプ/俺とお前のMD構想

 DS-10をイジッてたらとても任天堂製品から出ているとは思えない、凶悪な音ができたので公開いたします。ニューロンとシナプスの結び目を強引にほどいて脳をスポンジ状にするような胎教とかに悪そうな音が10分以上続くので、本当に物好きな人だけ聴いてください。 KORG DS-10(Amazon.co.jp限定販売) posted with amazlet at 09.03.28 AQインタラクティブ (2008-07-24) 売り上げランキング: 62 Amazon.co.jp で詳細を見る

フランセス・アッシュクロフト『人間はどこまで耐えられるのか』

人間はどこまで耐えられるのか (河出文庫) posted with amazlet at 09.03.26 フランセス アッシュクロフト 河出書房新社 売り上げランキング: 91886 Amazon.co.jp で詳細を見る  原題は「Life At The Extremes」。タイトルだけからすると、ナパーム・デスとかライトニング・ボルトとかそういうエクストリームな人たちを愛好する人々の人生を追った本かと思いがちだが *1 、実際のところはイギリスのオックスフォード大学で生理学を教えている科学者が書いた「人間は極限状態にどこまで耐えられるのか」を詳細に示した本である。全7章の内訳は以下の通り。 どのくらい高く登れるのか どのくらい深く潜れるのか どのくらいの暑さに耐えられるのか どのくらいの寒さに耐えられるのか どのくらい速く走れるのか 宇宙では生きていけるのか 生命はどこまで耐えられるのか  この本では人間だけに留まらず、他の種の動物や微生物などにもフォーカスがあてられ、また、そういった極限状態に対して生命の身体はどのような反応を示すのかも紹介される。言ってしまえば、一種の科学雑学本なのであるが、とても面白かった。著者(女性)の語り口もとてもユーモラスで「きっと良い感じのオバサンなのだろうなぁ」と想像がつき、調べてみたら本当に良い感じのオバサンだったので余計に親しみを抱けてしまった。  しかし、雑学本とはいえ得るものもかなりある。個人的には「どのくらい速く走れるのか」で紹介される、長距離ランナーが用いると言う「カーボローディング」 *2 という食餌計画の話などは、(私も長距離を走りたいと思っているので)とても参考になったし、他にも感動してしまう部分さえあった。なかでももっともグッときてしまったのは「どのくらい高く登れるのか」におけるこの部分だ。少し長くなるが引用しておこう。ここでは、中南米におけるスペイン人の侵略の歴史と高度が人体に及ぼす影響が紹介される。 スペイン人は標高約4000メートルにポトシの町を建設したが、ここはまさに辺境の地で、女性や家畜は出産のためにふもとへ下りなければならず、子どもが生まれてから1年は低地で育てた。先住民の女性は妊娠も出産も影響を受けなかったが、高地で生まれたスペイン人の子どもは死産か、生後2週間以内に死...

菊地成孔 南博『花と水』

花と水 posted with amazlet at 09.03.26 南博 菊地成孔 ewe records (2009-03-25) 売り上げランキング: 561 Amazon.co.jp で詳細を見る  CDを再生した瞬間に鳴るピアノの和音によって思い出したのはテオドール・アドルノがジャズを痛烈に批判したエッセイの一節だった。私はここで机の上にあった『楽興の時』を紐解いてその部分を正確に引用しよう――「ホットな律動法を例外として、ジャズの精妙な技術上の特色のすべてが、印象主義の様式に源を発しているのであって、印象主義はジャズというまわり道を通って始めて社会に広く受け入れられるようになったと言っても、あながち言い過ぎではないのである」。この言葉と同時に思い浮かべたのは、クロード・ドビュッシーによって書かれた水の印象に基づくピアノ作品である。ジャズ、印象主義、ドビュッシー。そして、水。よく知られているように、かのフランスの作曲家は同じ印象主義という括りで語られる同時代の画家たちと同様に、東洋への強い憧憬を持っていた。オリエンタリズム、ジャポネズム。「ジャズ・ジャポネズム最新の実践」と謳うアルバムだけはある。冒頭からこのアルバムには水が満たされていた。  一方、花はどうであろうか。何がここでは花開いているのだろうか――まず第一に言えることは、イメージが咲き乱れている、ということだ。このことは冒頭から続けた私の他愛もない連想ゲーム(もちろんこんなものは批評でもなんでもない)からも導き出せる。そして第二に、この演奏自体に花のイメージが付与できるのだろう(ここでは水のイメージと花のイメージとが共存している)。しかし、その花は自然のなかで無垢なまま育つ花ではない。切取られ、花瓶のなかで、あるいは剣山に刺された状態で、水を与えられることによって始めて輝く花である。言うまでもなく、それは人工的に作り出された状態であり、芸術というよりかは、商品としての性格のほうが色濃く出ているように思う。  これは芸術ではない。ここで再びアドルノの言葉を借りるならば「規格化された商品」に過ぎない。それも芸術の形式を高度に模した、限りなく芸術のポーズを取ろうとする商品である。だが、高度に芸術の形式を模した商品は、商品と区別との境界線を曖昧にさせる。それは自ずと、今日において商品ではない芸術がどこ...