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ヴァレーズと《アメリカ》




ヴァレーズ作品全集
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 本当はローランド・カークについての文章を書いてみようかと思ったのですが、菊地成孔がエドガー・ヴァレーズの《アメリカ》について書いていたので私もヴァレーズについて書いてみます。


 個人的にこの作曲家のリスナーの受容には疑問視しているところがあります。疑問というのも主に「作品の割りに言及が多すぎる」、「名前がよく出てきすぎる」という点なのですが(それはカールハインツ・シュトックハウゼンに関しても同じように思っています)。ヴァレーズに対して最も有名な「リスペクト」を掲げたのは、フランク・ザッパでしょう。「ザッパ大先生が幼少時代にヴァレーズのレコードを聴き、自宅に電話をかけた」というエピソードはロックと現代音楽を結びつける美しい物語です。また、ジャズにおいては菊地成孔が言うようにチャーリー・パーカーの話がありますし、ジャズ・エッセイストでありベーシストのビル・クロウ(彼の本は村上春樹の翻訳で読むことができます)もヴァレーズの呼びかけでセッションを行ったことを書き記しています。とにかくシリアス・ミュージック以外での登場が多く、そのことがヴァレーズが聴かれるようになった要因の一つなのでしょう。作品はCD2枚で全集が完成してしまうほど僅かな数しか残っておらず、そのほとんどがアメリカに活動の舞台を移してからのもの。ヨーロッパ時代の作品は《暗く深い眠り》という歌曲以外、焼失または破棄されている「謎の作曲家」です。楽壇で華々しい活躍をしたという話は聞かないし、カルト的な作曲家という位置づけが相応しいような気もするのだけれど、カルトにしては人気があるのが不思議。


 さて本題の《アメリカ》ですが、これを聴いて一番最初に思い浮かぶのが原始主義時代のストラヴィンスキー。これについては《春の祭典》からの引用がところどころで使用されています。25分ほどの大作で、強迫的に用いられる激しいリズムの反復と異教的な瞑想とが交互にやってくるとてもカッコ良い作品。しかし「これのどこがアメリカなのだろう……」という疑問は浮かんでしまいますね。どこにも「アメリカらしい」ところがない。あえて言うなれば「混沌としたところ」がアメリカらしいと言えばらしいのだけれど。以前にライヴで聴いたDCPRGの『アメリカ』に収録されるであろう新曲で聞かれた「リズムと和声の混濁」と通ずるものもあります。よく言われるヴァレーズの作風には「非楽音的なものの使用」というのがありますが、それはこの作品にも表れており、ここではサイレンが効果的に使用されています。



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 Youtubeで観れるヴァレーズの作品。《オフランド》。ブーレーズ先生の指揮が明確すぎてカッコ良い!





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