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とりつかれたように読む




失われた時を求めて〈6〉第三篇 ゲルマントの方〈2〉
マルセル・プルースト Marcel Proust 鈴木道彦
集英社


 勢いで6巻も読み終えてしまう(7、8巻も買ってあるけどこのまま行ってしまうかどうかは考えものだ。他に読まなくてはいけないものがありすぎる)。些細な印象だけれど、5巻ぐらいから小説の中で語られる音楽に実在の固有名詞が多くなっている気がする。ベートーヴェン、シューベルト、ワーグナーの名前が何度も出てきた。具体的な想像を駆り立てられる。特に語り手とシャルリュス氏との間にいざこざで突如聴こえてくる《田園》の第5楽章*1などは、そんな劇的な演出があったらさぞ驚いてしまうだろう、と思う。


 前巻の最後のほうで発作を起こしてしまう語り手の祖母が、衰弱し、息を引き取るまでが第6巻の前半部分で描かれているのだけれど、この部分がすごく良かった。これまで社交的な人間関係(俗っぽくて、いやらしい感じの)ばかりが描かれてきたなか、祖母を看病する家族が初めて家庭劇のように現れ、特に語り手の母親の心理は乱れる。けれど、その乱れによって私は、なんか「人間的だなぁ」と愛着をもって読めるようになった気がする。祖母が死ぬ瞬間の描写は「ちょっと、すごいな…これは……」と溜息が出るぐらい美しい。「一瞬の緊張の後にやってくる、静けさ」と言った類の書き方で、これと似たものでカーヴァーの『ささやかだけれど役に立つこと』を思い出す。


 長大な物語もあと半分とちょっと。




*1:プルーストは第3楽章と誤記している





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