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合理性の暴力から逃走する




否定弁証法
否定弁証法
posted with amazlet on 06.10.19
テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 木田元 渡辺祐邦 須田朗 徳永恂 三島憲一 宮武昭
作品社
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 アドルノ*1が7年の歳月をかけて書き下ろした大作『否定弁証法』。彼の思想的な基本姿勢がつまった集大成的著作である。素晴らしかった。恥ずかしながら読んでいてマジで二度ほど泣いた。


 この「作品」の主な論点は訳者、徳永恂による解題にすごく簡単にまとめられている。アドルノは「非同一性の人」とよく呼ばれるのだけれど、この本でも基本はそう。合理的理性(ラチオ)による同一性の認識に対しての疑問のまなざしが注がれ、カントやヘーゲル、そしてハイデガーに対して「限定的否定」としての「批判」がされている。とくにヘーゲル的弁証法(否定の否定は肯定)に対しての批判は厳しい。ここでアドルノはアンチテーゼ的な「特殊者」(否定の否定によって肯定とされ、普遍性のなかに取り込まれる者)を擁護する立場に経とうとしている。途中、ホルクハイマーと共著『啓蒙の弁証法』で試みられた啓蒙に対する批判も挿入しながら、アドルノは非同一性にとどまろうとしているように思われた。


 この辺の話は第三部の第二章までに書かれており、とても難しい。というかあえて難しく書かれている。分断されたエッセイのように文章が置かれ、長い序論があったにも関らずアドルノの「意図するところ」はなかなか見えてこない。


 しかし、第三部の第三章になって曇りは晴れる。「アウシュヴィッツのあとで」という部分から話は一気に具体化し、アドルノが危険視するものの姿がドンと目の前に現れてくる。「(アウシュヴィッツによって)個人は彼に残された最後の、最もうらわびしいものである死までも収奪されてしまった。収容所において死んだのは個人ではなくサンプルであった」、「アウシュヴィッツのあとではまだ生きることができるか(中略)偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されていてもおかしくなかった者は、生きていてよいのか」と胸に突き刺さるようなフレーズが連発するところに、全体主義や合理主義によって、非同一的なものが同一性へと取り込まれていく過程で発生する《暴力》を彼が非常に危険視していることを感じる。この点がアドルノの非同一性の哲学が非常に人間的なところだ。少々言いすぎになるかもしれないが、彼が批判するヘーゲル的弁証法のなかの「特殊者」は、ヨーロッパにおけるユダヤ人のアナロジーであったと言っても良い(かもしれない)。


 以上、本の解説的なものを今までブログでアドルノについて書いたことと重複しながら書いてみたが、これは本当に色々な人に読んで欲しいと思う。「堅物で訳の分からない文章を書く人=アドルノ」の姿が氷解する瞬間にやってくる驚きと感動を味わって欲しい。本当に大事なのはアドルノを《理解すること》じゃなくて、《体験すること》のように思う。ちなみにこの本の翻訳、25年以上かかってるのを知って「今、学生やってて良かった!!」と思った。


 まぁ、しかしアドルノの問いってすごくアクチュアルで重い。「オウムのあとではまだ生きることができるか」、「9.11のあとではまだ生きることができるか」……いくらでも言い換えることができるよなー。例えそれが何らかの事件的なものでなくても日本の「年間3万人以上の自殺者」なんて言い方と状況からして、アドルノ的には問題意識にひっかかりまくっちゃうような気がする。




*1:社会学者で哲学者で音楽評論家で作曲家で難しいことを言ってたオッサン





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