スキップしてメイン コンテンツに移動

パビリオン山椒魚



http://www.pavillion.jp/



 オダギリジョー主演の映画。「伝説の動物国宝、キンジロー(オオサンショウウオ、150歳)はホンモノなのか調査してくれ」と依頼を受けた天才レントゲン技師が「サラマンドル・キンジロー財団」の謎を追う…!?とあらすじを書いてみようとしましたが、これは嘘です。全然こんな映画じゃなくて「オダギリジョー主演映画」という宣伝も大嘘なすごい映画でした。「ピンチョンっぽいなぁ…この荒唐無稽感……」と思っていたら、監督の冨永昌敬はピンチョンの大ファンなのだそう。あからさまなのですが、ここまで派手にやられると楽しすぎますね。


 とにかくすごいスピード感、というかツギハギ感が冒頭30分ぐらい感じました。これはかなり異常。観客の前に提示される映像は、映像の裏側に隠蔽された大きな物語から輩出される断片みたいなもののような感じがしてうまく馴染めなかったのですが、慣れてしまうと気持ち良い。サスペンス、メロドラマ、コメディ……無いのは爆発と格闘ぐらい…という詰め込み様で、中断と急展開の連続が面白すぎます。カメラワーク・編集も異常。長まわしとか、フォーカスの移動の連続とか、あんまり見たことない感じ。途中で1分近く画面が真っ暗になる箇所(その部分は音声のみ)があり、それが映画の前半と後半を分ける象徴的な切れ目になっているわかりやすさも良いです。


 観終わってしばらくして「ああ、これはよく出来た『問題作』だなぁ」と思いました。そもそもオダギリジョー、香椎由宇という旬な二枚看板でこんな無茶苦茶な映画が製作できたことが奇跡に近い。他のキャストも豪華だし。ただ、この「よく出来た」という感じは悪い意味でももちろんあって、それはなんか映画っていう大きな資本が絡んだもの故の限界も感じます。オダギリジョーも上手いんだけど(後半のインチキ臭い感じが最高。あえてダイコンな演技をしてる感じ)、もっと突き抜けるような過剰さがあったら良いのに……とか思った。オダギリジョーじゃなくて脇役の高田純二が主人公だとかさ。誰が観るかわかんないけど。私は面白かったけど、人にはオススメできる映画じゃないですね。



パビリオン山椒魚
パビリオン山椒魚
posted with amazlet on 06.10.10
冨永昌敬
河出書房新社



 あと「この映画、監督自身がノベライズしたら三島由紀夫賞取っちゃうかもなぁ……」と思ってたら、既に小説版が出ていた。ちょっと読んでみたい。





コメント

  1. オダジョ・・・!ずるい!

    返信削除
  2. 他では絶対観れないオダギリジョーが観れる映画でもあるよ。オススメはしないけど「見たことない!」って感じ。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」