スキップしてメイン コンテンツに移動

クラシックとモータースポーツ



 会社員として働き始めてあっという間に三ヶ月が経ち、ボーナスでテレビを買ったので、休日は家でホッピーを飲みながら『N響アワー』と『芸術劇場』をぼんやりと見て過ごす、というヌルい暮らしを送るようになった。大学に通っていた頃はテレビを持っていなかったので、ほとんど4年ぶりに池辺晋一郎先生のダジャレを耳にしたのだけれど、まぁ、お変わりのないこと。アシスタントの女性も、N響の団員も入れ替わってるのに、この人だけはずっと変わっていないのがすごい。ヌルさを通り越して、優美な感さえある。また、先々週の『芸術劇場』は音楽評論家、吉田秀和の特集でこれもまた感動的であった。


 私が見るテレビ番組って(皆藤愛子を観るためだけにつける)『めざましテレビ』と前述の二つの音楽番組ぐらいなのだけれども、先々週は偶然F-1の中継を観た。モータースポーツには全然詳しくないんだけど、車メーカーが持てる技術力を一心に注いで作った車が爆音でサーキットを走り回る、レーサーは命がけでハンドルを握っている、という感じは良い。レーサーだけではなく、チーム全体で勝負を作り上げていく、っていう感じはオーケストラにも似ているような気がする。


 オーケストラの指揮者にも、F-1レーサーみたいな人たちがいる。「ドライヴ感を持っている指揮者」と呼ばれる彼らが作り出す音楽は、聴いていて手に汗をかいてしまうぐらいの興奮に満ちていて、退屈という言葉を知らない。そういうタイプの指揮者の代表格と言えるのがカルロス・クライバーで、彼が振るリヒャルト・シュトラウスの《薔薇の騎士》の疾走感はサーキットを駆け巡るF-1カーそのもので、鋭く、美しかった。ただ、テンポが速い指揮者ならいくらでもいるけれども、クライバーの持っている音楽のうねりや自在さは特別だ、と未だに感じる。耳にぴったりと喰らいついて、スキを見せたら鮮やかに追い抜かれてしまうような。


 オーケストラとF-1が似ている、と感じるのは、(私でも知っているドライバーの)ミヒャエル・シューマッハと(音楽に詳しくないアナタでも知っている)ヘルベルト・フォン・カラヤンが同じように“帝王”と呼ばれていたからかもしれない。そういえば、どちらも“名門チーム”を代表する立場に座っていた。フェラーリとベルリン・フィルハーモニック・オーケストラ。どちらも世界最高峰の「誰もが憧れるブランド」である。もっとも、“帝王カラヤン”が作る音楽は、クライバーのようにオケをドライヴさせるタイプのものではなく、嫌味なぐらいに外観を磨け上げたスポーツカーで「一番速く走れるコースを、ごく普通の法定速度で走る」みたいなものだったけれど。これは貶しているわけではなく、“カラヤンの運転”もそれはそれとして素晴らしい。「車には絶対キズやヨゴレをつけないぞ!」という潔癖症的なところがあるけれど、それが徹底されたときの異常な音楽の高級感は立派だとさえ感じる。

 連想ゲームを続けてしまうと、ベルリン・フィルと双璧を成す名門、ウィーン・フィルはクラシック・カー・レースでならこれからもずっと一位を取り続けるだろうし、「ドイツの放送局が持っているオケ」なんかはマツダとかスバルとか、そういう車メーカーに似ている(どちらもポピュラリティで言ったら『名門』に負けるけど、特定の部分に強そう。そして、ハードコアなファンがいる)、とか思い浮かんできてなかなか楽しい。そう思ってしまうと、「南西ドイツ放送響*1が……」とか言ってる人は絶対ロードスターにしか乗らなそうな気もしてくる。


 現在、ベルリン・フィルの芸術監督のポストに座っているのがサイモン・ラトルという人なのだけれど、この人がまた変わった人。ヨーロッパの指揮者で現在最も有名なのがこの人とワーレリー・ゲルギエフというロシアの指揮者なんだけれども、ゲルギエフが分かりやすくロシアの作曲家の曲をリリースし続けているのに対して、ラトルは全然進んでいるコースが見えない。ベートーヴェンの交響曲全集やマーラーの録音を出してドイツ音楽の「王道」を走るかと思いきや、メシアンやドビュッシーなどフランスの近現代の作品を取り上げてみたり、出身国であるイギリスの作曲家のCDを出したり……という感じで「一体、何がやりたいんだろうな」と正直思ってしまうところがある。録音の内容も「結構斬新で面白いのだけれど、少しネジれてるというか……いや、これ、良いのか?」と不安になることが多い。音楽の技術は高いんだけれど、直球で「感動した!」というところに持っていかない変わった指揮者である(この人の録音ではベルリン・フィル芸術監督着任以前のモノの方が好きなものが多い)。


 聴衆が戸惑うほど好き勝手やってるラトルの姿は「他に誰もいないサーキットで、フェラーリを乗り回している大富豪のおぼっちゃん」みたいに見えなくもない。世界最高峰のオケに自分の好きな曲を好きなように演奏させているラトルの笑顔を見てると「これもこれで幸福な音楽なのかなぁ」と思う。交通ルールがない場所で好きなだけアクセルと急ブレーキがかけられる自由を想像するとうらやましい。




*1:現代音楽で有名なオケ





コメント

  1. プチクラヲタ、プチ車好きとして、全てのたとえが納得いきます。
    すばらしい!!

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か