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「空気嫁」の傲慢さについて



 最近のブクマ動向を見ていると「空気を読むこと」に関するエントリに人気が集まっているように思います。それだけ他人との人間関係を上手くやっていくことに関心が高まっていることでしょうか。あるいは、にちゃんねるなどで強く規範化されている「空気嫁」という同調圧力は、いまや広く一般社会でも共通して存在している、ということなのかもしれません。


 本来ならここで私も「空気が読めるようになる方法」を披露し、人気ブロガーへの道を一歩進めるべきなのでしょう(エントリのタイトルは『死ぬまでに実践したい10の空気の読み方』とかで)。しかし、ちょっと待ってください。


 「空気嫁」言説においては、読まれるべき空気が存在するかのように扱われています。空気が存在すること、それは自明のことになってします。例えば、すごくお喋りな人が一人いて、終わりがないんじゃないか……っていうぐらい話を続けている(しかも話がつまらない)、なんて状況を考えてください。その場にいたお喋りなAさん以外の全員が内心「空気読めよ……」と思っているかもしれません。


 彼が喋れば喋るほど、「空気」はどんどん重苦しくなっていく(もちろんこれは暗喩です)。このとき、読まれるべき空気は場全体に広がって存在するものとして、また各主体の外部に存在するものとして考えられているように思います。しかし、我々の社会において、本当に読まれるべき空気など存在しているのでしょうか?本当は、Aさんの喋りを聞かされている各々が勝手に考えていることが「似ている」だけであって、その場にある空気を読んでいるわけではない。そして、そもそも空気なんて存在しないのだとしたら……。


 もう少し噛み砕いて説明しましょう。言語学の術語を用いるならば、このようなコミュニケーションの場において我々は「コード」を利用しながらやりとりをしています。例えば、ある主体が行為Aを行った場合、その被行為者は意味Aを受け取る、このとき「行為A」を「意味A」に変換しているのが「コード」と呼ばれているものです。しかし、このコードも暗喩です。


 しかも、このとき言われているコードはコンピュータが意味解析を行うとき使用しているコードのように、ある社会にいる全員が共有している、というものでもありません。コンピュータであれば、どのコンピュータも「文章A」を同じように解析するでしょう。しかし、人間だったら「文章A」を読む人が2人いたら、そこで各読み手が得る「意味」は「同じA」ではありません。読み手Aと読み手Bとはそれぞれ違う「意味A」を受け取っているのです。


 具体的な例を出せば、丸川珠代の顔を見た瞬間に「薄幸だ!」と思う人もいれば、「美人だなぁ」と思う人も(いないかもしれないけど)いる、ということです。同じように「薄幸」と受け取った人のなかでも、「薄幸」の濃淡には違いがあります。だから厳密に「同じ意味を受け取っている」ということはできないのです。コミュニケーションにおいては「似たような意味」がたくさん存在しているだけであり、それらが集合的に取り扱われることによって慣例的に共有され(ているように見え)る「意味」があるように思われている――とこんな風に言い換えることができると思います。付け加えるならば、「コード」も事後的に確認されうるだけで、どこかにハッキリと存在しているわけではありません。


 話を「空気」に戻します。すると「空気」もまたハッキリと存在しているわけではない「意味」と同じように考えることができるのではないでしょうか。つまんない話をベラベラと話し続けるAさんの行為が「空気を悪くしている」という意味を生んでいる。このとき生じた意味(空気)は、Aさん以外の全員が共有しているわけではありません。Aさんの行為を「うんざりするな……」という風に受け取っているBさんが「CさんもDさんも同じように考えているだろう」という具合に考え、「悪い空気」を錯覚しているだけなのです。空気は外部に存在するのではなく、むしろ内部で錯覚されているだけだ、と言っても良いでしょう。


 このように考えれば「空気読め」と言うことは、リスクを伴った行為だということが分かります――Aさんがやっと長い長い話を終えて、その場が解散になった後で、BさんがCさんとDさんに話しかけます。「アイツ、マジ話なげぇよ。しかもつまんないしさぁ……空気読めって感じだよな」。しかし、そう言われた二人はBさんと違ってAさんの話を結構面白く聞いていたとしたら……。途端にBさんが「読めていたはずの空気」は、「読み間違え」になってしまい、同時にBさんこそが「空気を読めない人」へと転落してしまいます。


 このときのBさんは「まわりも自分と同じように考えているはずだろう」という確固たる自信があったからこそ、「Aは空気を読め」とCさんにグチったのでしょう。しかし、この確固たる自信こそが、独我論的である、と批判されうることになるのです。まわりも同じように考えている、と信じ込んでいるとき、Bさんは他者を無視している。Bさんのなかには他者を想像する想像力が欠けていた、ということもできるでしょう。


 また、Aさんだってわざわざ「空気を悪くしよう」と長々お喋りをしていたわけではありません。だからこそ、Aさんに「お前空気読めよ」と言うのも無意味な行為です。そもそも、Aさんが行った「お喋り」という行為には「悪い空気を作る」という意味が意図されていないのですから、Aさんは「空気読め」と言われても理解できません。「お前、そんなに一人で喋ってんじゃねーよ!」と言うのなら理解されるかもしれませんが、もしかしたら「なんで自分が楽しくしゃべっているのに、そんな風に怒られるのだろう」と思うかもしれません。こういう場合、Aさんにもまた先ほどのBさんの「転落の例」と同様、他者への想像力が欠けている、と言えるでしょう。「自分の話はみんな楽しく聞いてくれるはずだ」という自信がAさんにはあったのでしょう。


 結局のところ私は、「『空気読め』という人」も「空気が読めない(と思われている)人」も、「傲慢さ」というリスクを背負うことになる、と思うのです。まぁ、読んでも読まなくても「傲慢」なら、読まないほうが楽だと思ったりします。





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