スキップしてメイン コンテンツに移動

BBCフィルハーモニック管弦楽団日本公演@横浜みなとみらいホール



 BBCフィルハーモニック管弦楽団の日本公演を聴きに行った。お目当てはもちろんヒラリー・ハーンの独奏によるシベリウスのヴァイオリン協奏曲である。ブラームスやメンデルスゾーンの協奏曲と並ぶ人気を誇るこのヴァイオリンの名曲を彼女の演奏で聴くのは私の永年の夢だったので、それが実現したことに感動もひとしお。本日のプログラムは以下。



グリンカ:歌劇《ルスランとリュドミラ》序曲


シベリウス:ヴァイオリン協奏曲ニ短調(独奏:ヒラリー・ハーン)


ストラヴィンスキー:バレエ音楽《妖精の口づけ》よりディヴェルティメント


チャイコフスキー:幻想的序曲《ロメオとジュリエット》


指揮:ジャナンドレア・ノセダ



 シベリウスのヴァイオリン協奏曲はとても難しい作品だな、と思う。この曲には、作品の構成や管弦楽法に「シベリウスの独特の筆致」がやはり認められる――後期の交響曲のように霞のような、どこか掴み所のないような印象を受ける。だからこそ、独奏者には鋭い分析力が要求される(もちろん同時に超絶技巧も)。


 個人的に「この難曲をどんな風に響かせるんだろう」というのはかなり楽しみな点だった。ハイフェッツに近いものだろうか?ムターみたいな演奏だろうか?あるいはチョン・キョンファ風だろうか?みたいにして想像は膨らんでいった。


 実際の演奏は私の想像よりも遥かに上を行く素晴らしいものだった。デビュー時から「現代最高のテクニシャン」として知られた彼女の技巧の確かさを充分に堪能できたのはもちろんのこと、音楽の運びはこれまでに出てきた「名演」のどれとも違い、新鮮で自由だ。


 また何年か前に録音したショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲(これも名演だ)のときよりも、歌い方の豊かさが増しているように思われた。おそらく、このシベリウスは彼女のキャリアにおけるひとつの成長のランドマーク的なものになるだろうと思う。


 ハイポジへの派手な跳躍や重音の部分で何箇所か細かいミスがあったけれど、全然そんなことは関係ない。圧巻の弾きぶりで、第一楽章の長いカデンツァでは思わず目が潤んでしまったほどである。アンコールのバッハ(無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番のラルゴ)もかなり神がかっていて、ハーンが曲の最後の音を弾き終わっても誰も拍手ができないぐらいだった。聴いていて息が苦しくなるような演奏は久しぶりである。


 他のプログラムも良い演奏だった。指揮のジャナンドレア・ノセダの演奏は、まだ福島で高校生だった頃にマリインスキー歌劇場フィルを振ったのを聴いている。そのときのチャイコフスキーの交響曲第6番(今回の来日公演のプログラムにも組み込まれている)は、私の記憶上の最高の演奏だったので「邂逅」という感じだった。そういえば前に聴いたときも前プロが《ルスランとリュドミラ》序曲だったと思う。


 ノセダについてはよく「ワーレリー・ゲルギエフの薫陶を受けた情熱的な演奏をする指揮者」という紹介がされる――速いテンポと幅の広いダイナミクス、そして派手なアクション(指揮台の上でピョンピョン飛び跳ね、第一ヴァイオリンへの大きな要求をするときは、トップ奏者の譜面台近くまで顔を近づける……など)はたしかに「ゲルギエフの弟子」というのが納得なポイントだろう。


 しかし、彼の音楽をただ単に「情熱的(あるいは爆演系)指揮者」と言ってしまうのは少し本質を欠いているように思われた――なぜなら「ノセダの音楽は金管が大音量で鳴っているような派手な部分でなく、もっと穏やかなどちらかといえば弱音が続く部分が素晴らしい」と思うところがあったからだ。


 そういった緩やかな部分での音楽の作り方は、どちらかといえばクラウディオ・アバドのものを思い起こさせる。アバドほど透明感や天国的な感じはないけれど、実に品がある解釈でとても良かった。すごく歌のツボを押さえた指揮者なのだと思う。とくにアンコールで演奏されたグリーグの《過ぎにし春》という穏やかな作品は絶品だった。


 表情付けも上手い。これはストラヴィンスキーで発揮されていたと思う。新古典主義時代のストラヴィンスキーの「シリアスでアカデミックな楽壇」的なものをまるで嘲り笑うようなところ――例えば、非常に美しい弦楽器のアンサンブルと、単調な金管楽器のマーチをカットアップのように構成する、など――がとてもユニークに表現されていた。フィナーレでとってつけたように爆音で音楽が締めくくられるところなど「最高だなぁ」と思うのだが、そこまでメジャーな作品ではないので観客のウケは結構微妙。



シベリウス&シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲
ハーン(ヒラリー) シェーンベルク シベリウス サロネン(エサ=ペッカ) スウェーデン放送交響楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック (2008/03/05)
売り上げランキング: 77



 会場で今回のシベリウスを収録したハーンのCDが売っていたので購入(『サイン会に参加できますよ』とのことだったが、終演後のロビーには300人ぐらいの長蛇の列ができていたのでサインは断念。その列を『すげぇな……』という感じで眺める人たちのなかに作曲家の吉松隆の姿もあった)。


 「シベリウスとシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲をアルバムにしたい」と彼女が語っているのを何年か前にインタビュー記事で読んだ(この2曲は、まったく性格が異なる。けれどもどちらも20世紀の名曲で、しかも、どちらの作曲家もイニシャルがSで始まる。このふたつのSの協奏曲をカップリングしたいのです、とか言っていたと思う)。その記事をたまに思い出しては「いつでるんだろうな」と期待を募らせていたのだが、やはり期待を裏切らない名演だと思う。特にシェーンベルク――ここまで精巧な美しさをもつシェーンベルクの演奏はしばらく出てこないだろう。まさに金字塔である。


 初めて彼女の実演に触れて「え?!こんなに小柄な人だったの!?」と驚いてしまったのだが(キャメロン・ディアスみたいにガタイが良い『パワフルなアメリカ人女性』っぽい姿を想像していた)、あの体のどこからこんなに強靭な音楽が生み出されてくるのだろう、というのは大きな謎である。



D


(数年前のシベリウスの映像がYoutubeにありました)





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」