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祭りの実効性を問う




挑発する知―愛国とナショナリズムを問う (ちくま文庫 み 18-4)
姜 尚中 宮台 真司
筑摩書房 (2007/11)
売り上げランキング: 54562



 もう少し宮台・姜の対談本について書いておく(昨晩のエントリは飲みながら書いていたおかげでいつも以上にグダグダになってしまった……)。


 これを読んで意外だったのは、宮台が「祭り」に対して肯定的な評価を与えている、という点である。ここで宮台は祭りを「本来何のつながりも持たない(都市的な)者たちが、『祭り』的な共通前提を与えられたことによって大きく盛り上がること」の比喩として用いている。ちなみにこれを最初に言い出したのは、北田暁大だったろうか。彼ら曰く、ワールドカップ。渋谷の街で大騒ぎする群集は愛国心を持ってサッカーを観戦し、盛り上がっていたわけではない。それとはまったく無関係で、いわば「祭り(という共通前提)が存在したから、祭りをおこなった」という自己目的性をもって騒いでいただけ、ということになる。以下に、宮台の発言を少し引用しておこう。



社会運動を「祭り」として楽しみつつ展開することが、もっと推奨されていい。(中略)日本の歴史が教えることは、善意のお祭り好きが歴史をつくってきたということです。でも悪意をもつ者どもに利用されてしまうということがありました。私たちの日本社会は「祭り」を否定すると鬱屈がたまります。(中略)むしろ「祭り」への免疫をつけたうえで、いろいろなものをバンバン「祭り」化していってはどうでしょうか。



 私にとってこの発言が意外に思われたのは先に北田との『限界の思考』を読んでいたせいかもしれない。そこでの宮台はこのような祭り的な運動に対して「バカが噴きあがりやがって」というような厳しいコメントをしていたと思う。もっとも、ここでの宮台は祭りを「バカを社会的/政治的問題へとコミットさせるようコントロールするための便利なツール」として捉えているように思われる。ただし、このように祭りを利用すること/に利用されることへは、悪い祭りと良い祭りを判断するように気をつけなくてはならない、とも宮台は言っている(それを判断する力が『祭りへの免疫』というわけだ)。


 「バカをコントロールするためのツール」として祭りを利用すること。宮台が言うように、これはとても有効性をもった道具として個人的にも感じられる。ある程度、状況や空気を読む能力さえ身につければ、簡単に祭りは起こせるのだから。


 ここで話をブログに置き換えてみる。「どうすればブログで祭り的なアクセス数を稼げるか」。これはバカが食いつきそうなネタ――スピリチュアル批判、「羊水が腐る」などなど――をヒョイと投下して、上手い具合に煽っておけばブログは簡単に炎上する。これを利用すればよい。そこで書き手がコメント欄で叩かれれば叩かれるほど注目度は高まり、アクセスは増える。グーグル・アドセンスを利用するブロガーであれば、そのアクセス増加によっていつもより多くの広告収入を得ることができよう。ネットで単純にアクセスを稼ごうとするならば、東京から45分で行ける日本屈指の清流地帯まで取材にいく必要などない。バカを焚きつけておけばそれで話は済んでしまう。


 祭りを起こすのも簡単で、この可燃性の高さを利用すれば良い。宮台の釘を刺すようなコメントとは裏腹に、社会における「祭りへの免疫」は確実に弱まってきている。そこには「社会における共通前提の崩壊」が深く関係しているように思う。大晦日に紅白を見なくなり、CDはミリオンセラーがでなくなり、国民的アイドルはどこを探しても見当たらない……このような状況にもその共通前提の無さが色濃く出ている。だからこそ、一度祭りによって共通前提が与えられると不気味なほど燃え上がってしまう。


 しかし、「社会運動を『祭り』として楽しみつつ展開することが、もっと推奨されていい」というのはどうだろうか。祭りが持つコントロールするためのツールとしての有効性は認める。ただ、それが社会運動とつなげられるほどの実効性を持つかについては疑問を抱かざるを得ないところだ。祭りは祭りでしかない、と私は思う。


 第一に、祭りの持続性の無さが問題である。祭りとして何らかのデモをおこなったとしても、それによって即時的に何らかの効力が得られるとは考えられない。祭りの熱はすぐに冷め、祭りに参加した人たちは次の日から日常へと戻ってしまう。「それでもやらないよりはマシだ」というのはロマンティックな思考法だろう。それならば時間をかけて地道な活動を行っていくほうがよっぽどマシな方法のように思われる。


 第二に、祭りは結局内輪だけが盛り上がって終わってしまうことということに問題がある(これは北田も宮台も指摘していることであるが)。祭りが行われる。しかし、それはインスタントに仕立て上げられた共同体のあいだでだけ盛り上がるだけで、外側へと働きかける力に欠けている。社会運動として祭りを利用しようとするならば、これは致命的な欠陥といえるのではないだろうか。





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