スキップしてメイン コンテンツに移動

コンサートで聞いた赤の他人の雑談より



 ベレゾフスキーのコンサート、さすがにチケット2000円でしかも郊外にある会場というだけあって、普段足を踏み入れるようなコンサートでは見かけないようなお客さんがたくさん見受けられました。例えば、ロビーで「明日カラオケのレッスンがあってよぉ!」と仲間に話しかける、明らかについさっきカップ酒を飲んできたであろう……と推測できるような臭いを放つオッサンとか。


 強烈だったのは私の真後ろに座っていたオバサン3人組で、この素敵な淑女たちは開演前から「誰それの息子さんは○○につとめててね……」だの「ウチの息子も大学に入ってね……」だの、ローカルなゴシップ会話で大盛り上がり。そういう下劣極まりない会話をしつつも、言葉遣いはマンガにでてくるみたいな「○○ですわよ」というバカ丁寧な口調だったので、どんだけ上品な淑女なのだろうと後ろを振り向いたら、全員“太陽王”ことルイ14世の肖像画みたいな髪型してた。もっと現代的な喩えをすれば、まるっきりイングヴェイ(結論として、どうやら多摩市の行政は絶対王政で、しかも速弾きが流行ってるらしい)。


 この淑女3人のルックスも衝撃的でしたが、もっと驚いたのが彼女らの一人が休憩後に戻ってきて「そうそう、ウチにあった《熱情》のレコードは、ヴァン・クライバーンだったわ。もしかしたら、ホロヴィッツかもしれないけれど」という言葉を放ったことでした。「クラシック=教養」として音楽を消費し、まるでコンサートのチケットへ払う出費がリヴィングに並べ置かれる百科事典と同等である……という風に見て取れてしまうようなルイ14世レディの口から、まさかクライバーンの名前が出てくるとは思いませんでしたし、また、彼女らの口からホロヴィッツの名前が出てくるということは、それだけこのピアニストに人気が集まっていたという事実を証明するものでしょう。


 どちらにせよ「あら、今知ったけど今日は《熱情》をやるのね。ウチの息子が練習してたけど、どんな曲か忘れちゃったわ」「聴けば思い出すわよ、きっと」→終演後「やっぱりウチの息子の演奏とは違うわー」という感想を交換するような、言ってみれば音楽に対してその程度の思い入れしか持たないオバサン連中がクライバーンやホロヴィッツの名前を記憶している、ということは、かつて彼らがそれだけの人にも記憶されるようなポピュラリティを得ていたことを伝えるものでした。


 果たして、そこまでのポピュラリティを得ている演奏家が現代においても尚存在するか?――これは少し問題になる点かもしれません。ポリーニ?アバド?ロストロはもう死んだし、小澤征爾は日本人ってだけで「うーん……」って感じだし……という感じで思い当たりません。巨匠っぽさで言えば、スクロヴァチェフスキなんかかなり良い線いってますが、いかんせんマニアックだ。


 正直、ホロヴィッツなんかが特別な存在だったのかもしれませんが、逆にそういう存在がいないことによって、ルイ14世みたいなおばちゃんがコンサートホールにやってくる(上品ぶっていてもコンサートマナーはすこぶる悪い)という状態が回避されるわけで、それは逆に私にとっては幸福なのかな、とも思いますけれど。別にクラシックじゃなくても素晴らしい音楽はたくさんあるわけで、みんながみんなクラシック好きじゃなきゃいけないとか、そんな風に思わないしなぁ。


 完全にグチ口調になってきたんで書いてしまうけれど、月一ぐらいのペースで演奏会にいくようになってまず思うのは「どうして音楽だけを聴けないのか」というのがあります。演奏が始まって5分ぐらい経つと、あちらこちらでパンフレットなどをペラペラとめくる音がする。めくってるほうは「平気平気」と思っているかもしれないけれど、実はこの音結構ホールに響いています(響いてなくても、楽器の音と紙をめくる音の倍音構成が全然違うせいで、かなりはっきりと聴こえる状態にある、と思う)。これはかなりウザい。はっきり言って迷惑です。そんなにすぐ飽きるなら、家でCD聴きながら本でも読めば良い、それで充分だろ、って思う。


 音に飽きて紙をペラペラやるぐらいなら、会場の外でCD買って帰って、家でそれ聴きながら思う存分ペラペラやってください(余ったチケットは、音楽に餓えてる学生にあげてやれば良いと思う)……ものすごく極論だけれど、同じお金払って隣でペラペラやられると溜まったものではないです。今回は2000円だったし、とか思えるからまだマシだけど、10000円以上払った席の隣とかだと1ペラ音の度に1呪詛のまなざしぐらいになります。





コメント

  1. では、耳をそばだてなくても、というより聞きたくなくても耳に入ってしまうような大声でマナーにそぐわない会話をしている、これはどうなのでしょうか?コンサート会場は、喫茶店ではありません。

    返信削除
  2. 当記事を支持します

    同時に id:ululun氏の愛あるユーモアも支持します

    返信削除
  3. 他人の雑談に耳をそばだてて、ブログで揶揄する人って嫌いです。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...