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大滝詠一/ロング・バケイション(30th Edition)




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大滝詠一
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 山下達郎のラジオ番組で新年の恒例となっている(らしい。実際には一度も聴いたことがない)大滝詠一との「新春放談」の今年分がこちらにまとめられている。これがとても面白かった。




 これを読んで今年『ロング・バケイション』の30周年記念盤が出るということを知った。30周年記念盤特典は歌が入っていない純粋なカラオケ・バージョンのCD。大滝は「新春放談」のなかでこのカラオケ版について以下のようなことを言っていたらしい。



ぼくはメロディを作ってから歌入れするっていうケースはめったにない(大瀧)


もしあったとしても、そのメロディは自分の中の一つの選択肢に過ぎない(大瀧)


最終チョイスであるけれど、と同時に<ワン・オブ・ゼム>でもある(大瀧)


それがいくつあったかというのは曲によって違うけれど、ゼムは山のようにある(大瀧)


だからカラオケを聴くと、いくつものゼムが聴こえてくる(大瀧)


ほんとうはそのゼムを聴いて欲しい(大瀧)


そのメロディでなくても良かったけれど、その選択しかなかったとも言える(大瀧)



 『ロング・バケイション』として発売された歌入りのバージョンは、その作品が出来上がり得るさまざまなバリエーションのうちのひとつでしかなかった、というこの発言は、グレン・グールドの楽譜解釈を想起させた。手前味噌だが、グールドの解釈についてかなり前に書いたエントリより以下引用。



 通常、演奏家(楽譜の解釈者)は「ひとつの楽譜解釈」を聴衆の前に提示する。しかし、グールドはそれをしない。グールドが提示するのはあくまで「ある・ひとつの・楽譜解釈」なのであり、そこには「別な楽譜解釈」の可能性が常に残されている。その可能性をグールドは隠蔽しない。録音と映像の間に存在する差異は、単なる気まぐれなのではなく、むしろ別な可能性の提示なのである。同じ演奏家がおこなったさまざまなな解釈のうち、どれが「正しいものなのか」、これを聴衆に判断することは不可能であり、選択はほとんど好みによってでしか行われない。その判断不能な状況は、突き詰めれば「正しい解釈が存在しないこと」もまた明示しているように思う。これによってグールドは「ピアニスト=解釈者」である前提を覆す。





 「解釈の光をあてる」という隠喩は、グールドの場合、楽譜に対してはっきりとしたスポットライトをあてた結果ではなく、光をあたられた楽譜の乱反射なのだろう。残された録音は、そこで生まれた多様な光の筋から偶然に選ばれた一本の筋に過ぎないのである。


グレン・グールド;録音と映像 - 「石版!」



 で、予約注文していた件の30周年盤が届いたわけだが、しかし、私にとってこれが初めて『ロング・バケイション』という作品を聴く初めて機会なので、まずは純粋に完成されたひとつの可能性を愉しみたい。それにしても商業音楽が職人的な作りこみによって、ひとつの芸術作品に高められた、という常套句にハマり過ぎる名盤であろう。iPhoneで80年代の音楽ばかり流しているネットラジオを聴くアプリを使っているときにも思ったが、内外を問わず、80年代というのはポップ・ミュージックの黄金時代だったのだなあ、という思いを改めて……とか、なにも言っていないにも等しい感想であるけれど、これはやっぱりすごいぞ、と。





 まず、エッラいポップなのに変なSEが「スカーン!」とか「ゴォーン」とか「ピューン」とか鳴ってて、それが何ともなしに聴いていると、まったく違和感がなく調和したものとして響いてくる。そこが異様。音も現代的なソリッドな音とは違った、ものすごく広がりを感じさせる音になっていて、思わず心が持っていかれます!





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