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プラトン 『ティマイオス』(2)




原文


Timaeus
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ソクラテス:そして私たちがこう言ったことも覚えているかね――はじまりや、ものさしや、男女といったものが可能な限り高貴な本質を持つために、結婚は、良い男性は良い女性と、悪い男性は悪い女性とで別々に組み合わされて集団を作るようなくじによって秘密裏に決められるべきである。どうだろう? また、この施策はあらゆる敵意を作り出さない。なぜなら、彼らはこのめぐり合わせがすべて偶然によるものだ、と信じているからだ、とも。


ティマイオス:はい、覚えています。


ソクラテス:また、これも覚えているかね? 良い両親に生まれた子どもはそのまま育てられるべきだが、一方で悪い親に生まれた子どもは秘密裏に別な都市へと移してしまうべきだ、と。そして、これらの子どもたちは成長するまで常に見守られ、援助に値すると分かったらもう一度都市に戻してあげ、そうでなかったら両親たちと一緒に場所を変えてしまうべきだろう、と。


ティマイオス:私たちはそう言いました。


ソクラテス:どうだろう、ティマイオス、これで私たちは昨日話しをしたことについて振り返ることができたのではないかな? 主要な点のみではあるけれど、なにか見落とした点はあるだろうか? 置き去りになっているものはないかね?


ティマイオス:ありません。私たちが語ったことはこの通りです。


ソクラテス:それは良かった。では、私は続けて、私たちが思い描いている政治形態について感じていることを君たちに話したいと思う。今の私の気持ちは、なにか崇高な外見をした動物を見つめている男のような気持ちなのだ――しかし、その動物たちは絵に描かれたものだったり、あるいは生きてはいるが止まったままで身動きをしない。そして、その男は、それらを動いた状態で見たいと渇望し、それらの特別に哲学的な特質を見せびらかすような試行錯誤をしているに過ぎないのだ。私は、誰か都市が争って手に入れる栄誉のために他の都市と競い、自分たちの都市について弁論をするのを聴くのが好きだ。また、私たちの都市が戦争をおこなったり、戦争を求めたりすることで目立つようになるのを見るのも好きだ。なぜなら、それはその都市自身の教育と訓練、あるいは言葉と行為という面が良い方向に反映される方法――たとえば、どのように相手に立ち向かうのか、どのように相手と交渉するのか、といった具合に――において、他の都市を相手にすることであるからだ。クリティアスとヘルモクラテスよ、こうした事柄において、私は我々の都市やそこに住む人間にぴったりな詩を歌うことがまったくできないと自分自身感じているのだ。ただ、これは私の場合だから驚くに値しない。けれども、私は今日の詩人たち同様に古来の詩人たちについても同じように考えてしまうのだ。概して私は、詩人に対して軽蔑のようなものをもっていないが、しかし、血統までも真似をしようとする者は、彼らが真似をしようと訓練しているものを模倣することに関してもっとも熟達している、ということは皆が知っていることだ。芸を真似することをちゃんとした仕事とすることは充分に難しい。物語を著述することはなおさらのことだ。そして、私は、ソフィストという類の人間は弁論を操るのがとても上手であると常々考えていたのだよ。しかし、彼らは次から次へと都市を渡り歩き、自分の家には落ち着かないだろう。その理由で、彼らの哲人政治家としての表現が的外れなものになってしまうのではないかと私は心配しているのだ。ソフィストたちがなにがしかの敵と戦っている際に、彼らは自分達の指導者が戦場で成し遂げたことについて偽りを述べる傾向がある。それが実際の戦争であっても、交渉の段階であってもだ。


 さて、そうしたものごとについてはこれぐらいにしておこう。君たちが鍛えられるのと同様に、本質によって哲学と政治は同時に成り立っている。ここにティマイオスがいる。彼は素晴らしい法律によって規律化されたイタリアの都市、ロクリからやってきた。彼の同胞には彼より上に立つ財産や生まれをもつ者はなく、そして彼はその都市の最高の権威と名誉を独占してしまっている。クリティアスにしても、ここアテネにおいては、私たちが話している事柄について単なる素人ではないことは知れ渡っている。ヘルモクラテスも、本性と訓練によってこうした問題を片づけるだけの資格を持っているために多くの人々から嫉妬を抱かれているにちがいない。昨日、君たちが行政について議論するよう私に願ったとき、私はすでにこうしたことに気づいていたのだよ。だから、私は君たちに命令してほしいのだ。君たちがもし、この続きとなる弁論をすることに同意してくれても、君たちよりも良い仕事ができるものは誰もいないのだよ。君たちを除いては、今日、都市の本当の性格を反映する方法で、戦争を追及する都市を表現できるものはいない。君たちだけが、都市が要求しているものすべてを与えることができるのだ。さあ、これで私が頼まれた議題についてはおしまいだ。私は席につき、君たちに私が描いてきた議題について話すように頼もう。君たちは一緒にひとつの組としてこの議題について考えている。そして、君たちはこの機会にお礼がしたいと言ったね。君たちの弁論が、ここにいる私にとって何よりも心のこもったお返しだ。そして私よりもこの贈り物を受けとる準備ができている人間はどこにもいないのだ。





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