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山下和仁 ギター・リサイタル @紀尾井ホール



 これまでにクラシック・ギターのリサイタルにいったのは一度だけ、それは村治佳織の演奏だったのだけれども、今日聴いた山下和仁の演奏はそのとき聴いた音楽とはまるで違ったものだった。音楽にはさまざまな種類の音楽がある。なかでも対極的なのは交響的な音楽と室内的な音楽で、前者は公の場で雄弁に鳴り響く音楽なのに対して、後者はあくまで私的なものであり、音が向こうから語りかけてくる、というよりかは聴衆の側から音のほうに耳を寄せていくような音楽である。そして山下和仁のギターはそうした私的な音楽を見事に体現する音楽であると思った。





 一曲目に演奏された《禁じられた遊び》、誰もが知っているクラシック・ギターの名曲中の名曲の演奏からして、山下の演奏は惹きつけるものがあった。大仰な表現ではなく、むしろ、細やかなニュアンスによって織りなされる表現の多彩さは、耳が感じるダイナミクスの幅をギターの音量に合わせて調整してくれるようだ。こうして耳の下地が作られたなかで聴く藤家渓子の《シューベルトの「野ばら」による変奏曲》が、なんと素晴らしかったことか。これはシューベルトの音楽(特に歌曲)におけるパーソナルな空間性が見事に結晶化した作品であろう。あの愛らしい主題がギターの繊細な音の変化とともに変化していく様子を耳で追う。その聴覚の集中によって胸中に生まれる空間のなかで、音による安らぎが感じられる。





 後半に演奏された藤家によるギター・ソナタ第1番《青い花》も素晴らしかった。今日までに彼女の作品はやはり山下の演奏でギター協奏曲第2番《恋すてふ》を聴いただけだったが、その曲が東洋的な響きを目指したエキゾチック&ロマンティックな一品だったのに対して、こちらは古典的な形式の美しさを感じさせる。山下による表現もそうした楽曲の性格に合わせるかのようで、冒頭からしっかりと、鍵盤楽器のようなニュアンスで引かれるニュアンスが印象的に聴こえた。こうした演奏家に出会うと「一流の、ある水準を超えた演奏家というものは、このように余裕を持って聴衆を満足させることができるのか」という風に思う。本日の出会いでクラシック・ギターの世界に強くひきこまれそうだ。





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