スキップしてメイン コンテンツに移動

平岡隆二 「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」

平岡隆二さんの名前を初めて知ったのは『ミクロコスモス』に収録されている「画家コペルニクスと「宇宙のシンメトリア」の概念 ルネサンスの芸術理論と宇宙論のはざまで」という論文を読んでからでした。現在、平岡さんは長崎歴史文化博物館の主任研究員をされており、研究領域は「欧・日・中を中心とする東西交流の観点から見た科学と思想の歴史」とあります。最近になって南蛮芸術に興味を持ちはじめたのはこの研究業績に触れたからでもあります。本日は平岡さんの論文「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」(書誌情報やダウンロードはこちら)を読んだのでそのご紹介(なお、さん付けで呼んでいますが面識はありません)。もうタイトルからして面白そうな雰囲気が漂っていてすごいですね。

十六世紀後半にイエズス会宣教師が来日し、熱心に布教をおこなったこと、その中心人物としてフランシスコ・ザビエルという人物がいたことは小学生でも知っている史実ですが、そのとき来日していたイエズス会宣教師たちが日本に西洋の宇宙論を輸入したこと、それが日本人が西洋の科学に出会う嚆矢となったことも重要です。この論文では、そこでイエズス会宣教師たちがなぜ日本に科学を持ち込んだのか、を詳細に見ていきます。

この論文が辿るポイントは、副題の「好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」に現れています。まず、日本人がそうした新しい知識に対して強い興味を抱く人びとだったことが遡上にあがってくる。海外から来たものをありがたがる風潮、これは十六世紀の日本でも同様だったのかもしれません。『日本史』という本を書いていることで有名なイエズス会宣教師、ルイス・フロイスは八十歳近い年老いたお坊さんが自分のところにきて、あれこれ話を聞いて帰ったという例を伝えている。この論文がとても面白く読めるのは、こうした事例がかなり詳しく紹介されている点です。そこでは当時の日本人の考えについても言及されている。

例えば月の満ち欠けについて、当時の日本人はどう考えていたか。当時の日本人は、月には三十人の羽衣を着た天女がおり、十五人は白衣、十五人は黒衣を着て、毎日入れ替わりせいで月に立っているのだ、と考えていたそうです。つまり、十五人全員が白衣の天女であればそれは満月、ということですね。すごいファンタジー。もちろん、それらは西洋の宇宙論からしたら鼻で笑うような考え方です。ただ、重要なのはすごいファンタジーの世界を反駁され、西洋の宇宙論を知った日本人がどういう反応を示したか、なのです。なんと当時の日本人は「え〜、なるほど〜」と理性をもって理解し、宣教師さまはすげえなあ、と感心していたのでした。だからこそ、よし、日本人は見込みがあるぞ! とイエズス会の人たちも思ったに違いありません。来日宣教師の重要人物のひとり、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは来日以前に出会ったインドの人びとに対しては「一人残らず無知で、いかなる種類の人文諸学も自然科学もしらない」とdisっている。日本人は特別視されてたんですね。

では、どうしてイエズス会宣教師たちは宇宙論・天体論を日本に持ち込んだのでしょうか? 世界ふしぎ発見的な問いかけですけれども、そこにはちゃんとした意図があったのですね。ペドロ・ゴメスは日本にあった神学校、コレジオで学ぶ神学生たち向けに『天球論』という宇宙論の本を書いている。どうして宇宙論への理解が必要なのか、と言えば「可視世界の深い理解から、不可視的創造主への認識へと至らしめるため」でした。こうした宇宙への理解が、神への認識へと人びとを導き、これまでは好奇のまなざしで西洋の知識に取り組んでいた日本人が、本当の意味でキリスト教を理解するのを促進するであろう、と彼らは考えた、ということです。論文のなかでは、そこでイエズス会宣教師たちが用いたロジックにスコラ学や人文主義の影響があったことも確認されます。

最後の部分は当時のイエズス会宣教師たちが最高天(エンピレウム天)と天国(パライソ)を同一の場所であると説いたことに関する考察になります。ここでは当時の日本人イエズス会宣教師(!)不干斎ハビアンのパライソ論が参照されているのですが、ここが最高に面白い。大体、日本人イエズス会宣教師かつ元禅僧、かつその後は転向してキリシタン弾圧に協力したというハビアンのプロフィールからして興味深過ぎなのですが、ハビアンの説かれるパライソが実に理解が深いもので、しかも仏教で説かれる天国(極楽)との比較までついている。彼のパライソ理解には理性と信仰が結実したイエズス会の目論み通り感があるわけです。まず、そんな日本人がいたのか、というのが驚きでしたし、昔学研の歴史まんがで読んだような「武士が支配する社会は不平等だけど、宣教師さまたちは全員平等と言ってくれるダア〜」という素朴な日本人キリシタンの姿が揺さぶられるようなお話だと思いました。


不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)
釈 徹宗
新潮社
売り上げランキング: 205149

ハビアンについてはこんな本も出ているので、是非読んでみたいところ。

平岡さんの仕事はラテン語だけでなく、江戸時代の邦文やイエズス会宣教師が書いた日本語の文章も読みこなして使われていて、はっきり言って今の私にとってはそうした江戸時代の日本語よりもラテン語のほうが楽に読めるので「すげ〜、プロの学者だ〜」と驚嘆してしまうところ。南蛮関係のマージナルな面白さをできるだけ生の感覚で見せてくれるような面白さがあります。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か