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ロレイン・J・ダストン キャサリン・パーク 「怪物:事例研究」

引き続き、坂本さんからいただいたダストン & パークの作品を読みました。こちらの「怪物:事例研究」(書誌情報)は『ユリイカ』に掲載された『驚異と自然の秩序』からの部分訳。いまではちょっと高級なサブカル雑誌になってしまった感のある『ユリイカ』にもこんな文章が掲載されていた時期があったのですねえ、というのが感慨深いですが、それはさておき内容の紹介と参りましょう。「反−自然の概念 十六、七世紀イギリス・フランスにおける畸型の研究」とかなり重複するものがありますが、ここで紹介されているのはおもに畸型が神が人間に送ったメッセージなのではないか、なにか悪いことの予兆なのではないか、と解釈されていた時代のお話で、実際に畸型のイメージがどのように解釈されていたのかを資料的に見ていくものになっています。

頭には剣のようにまっすぐ突き出した角。腕の代わりに蝙蝠のような翼。胸の上部をみると、片側にはフィオが、そしてもう片側には十字の印が刻まれている。下にさがって腰のあたりには二匹の蛇。両性の性器を持ち、右膝には目、左足は鷲のようだ。

十六世紀初頭の薬剤師、ルカ・ランドゥッチはある日ラヴェンナに生まれたという「怪物」について綴ります。このイメージは当時既に図版化され、大衆を楽しませるためのビラに掲載されていたそうです。民衆はこうした奇異をただ単に恐るべきものとして楽しみ、知識人はそれを不吉な予兆として解釈する。特別興味深いのは、ラヴェンナの怪物の異常な部位それぞれに悪徳が結びつけられたことでした。角は虚栄、翼は軽率さと気まぐれ、腕の欠如は善行の欠如、鳥の足は強欲、膝の目は精神が世俗のものにしか向けられていないこと。そうした悪徳の象徴が生まれることは、すなわち神の怒りを意味している、神は最近のあんな事件や、こんな事件にお怒りなのだ! というイメージの読み方がイコノロジー的に参照されるところがとても面白いです。

ルターが畸型のイメージをローマ・カトリック攻撃に使ったこともそうですけれど、何かが変である、異常である、といったことに対して敏感な意見は現代でも存在します。電車で化粧している女性が増えた、それは日本人の劣化を意味する、などよくわからない分析が平気で世にはばかっていることがあるでしょう。ダストン & パークの作品によって映し出されるのは、過去の人びとの習慣であったり、考えだけでなく、我々自身の姿も含まれているのかもしれません。

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