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最近の試聴だけして買ってない新譜たち


原則このブログでは買ったもの、読んだものを紹介するスタンスでしたが、クラシックについては「この曲、何枚もCD持ってるよな〜」という気持ちになってなかなか購入に踏み切れなくなったりしてしまうので、たまには試聴だけして買ってないものも紹介していこうかと思います。


庄司紗矢香が満を持してショスタコーヴィチのコンチェルトを録音。実演ではすでにいろんなオーケストラと演奏しており、Youtubeにもそのライヴ映像がアップロードされていますが、解釈を練ってきているな、という印象が伝わってくるような演奏でした。ここ10年のあいだでショスタコーヴィチの作品はかなり演奏機会が増え、このヴァイオリン協奏曲もほとんどポピュラーなヴァイオリン協奏曲の名曲として取り扱われているかと思います(第2番はかなり渋めなのでまだまだ演奏機会が少ないですけども)。しかし、それだけに録音に関してはオイストラフ、コーガン、オレグ・カガン、レーピン、ヒラリー・ハーンなどの良いものが揃っていて、私もオイストラフの演奏だけで3枚以上持ってるし、なかなか買い足すまでにはハードルが高いのですね。今回の庄司紗矢香の演奏はオイストラフの演奏に近いものを感じました。その印象はオイストラフ直系のザハール・ブロン門下、というイメージに引きずられている可能性は多々ありますが、恐ろしいクールネスやそれとは対照的な荒々しさでこの楽曲を押し通すのではなく、大変思慮深く、楽曲をモノにしてる感が非常に高かったです。第1番冒頭の沈鬱な表情からしてグッと引き込まれます。初めにこの楽曲のCDを買うなら、これをオススメしたい、という演奏です。私も何枚も同じ曲のCDを持ってなかったら買ってたでしょう。

ドビュッシー:ピアノのために
ブレハッチ(ラファウ)
ユニバーサル ミュージック クラシック (2012-02-15)
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ラファウ・ブレハッチは2005年のショパン・コンクール優勝者。近年のショパン・コンクールはのぶカンタービレ! が話題になる一方で誰が優勝したかちっとも記憶にないんですが、こういう人もいたんですね、と。ポーランド出身で、なかなか端正な顔立ち、だが、年齢は若いんだか老けてるんだかよく分からないヴィジュアル。グラモフォンと専属契約を結んでおり、今回のドビュッシーとシマノフスキのアルバムは通算4枚目のアルバムとなるようです。シマノフスキは19世紀末から20世紀前半まで生きたポーランドの作曲家で、近年徐々に録音が増えてきている気がします。ドビュッシーの録音は、とても鮮やかなモノで、瑞々しく弾けるようなリズムのうねりが印象的でした。注目はやはりシマノフスキのピアノ・ソナタ第1番でしょうか。試聴で初めて聴きましたが、ショパンのロマーンを、ラフマニノフやスクリャービンのテクニカルな要素によって電気ショックをかけてパワー・アップしたごときすごい楽曲でした。これが作品番号8番、21〜22歳のときの作品ですから、時代に恵まれていたらリヒャルト=シュトラウスと同列に扱われ、20世紀のショパンとして愛されたかもしれません。ただ、こういうのって「すげえ!」と思う反面、リヒャルト=シュトラウスやコルンゴルトの初期作品みたいに「すげえ! けど、あんまり聴かない」という扱いになるので、買うのは見送りました。

Keyboard Music Vol. 3
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W.A. Mozart
Harmonia Mundi Fr. (2012-01-10)
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フォルテピアノのクリスティアン・ベズイデンホウトはモーツァルトの作品集第3弾を出していました(これは予算がアレしたら購入するかも)。古楽、なのに全然退屈しない演奏。まるでアーノンクールやブリュッヘンのようです。最近の鍵盤奏者ではアレクサンドル・タロー(彼はモダンピアノですが)とベズイデンホウトが好きです。古い演奏を新しく、スッキリした音で聴かせてくれる演奏家にグッとくる。

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