およそ一年越しでアリストテレスの『動物誌』を読了(上巻の感想はこちら)。およそ2300年前の哲学者が書いた生物学についての体系的な書物、というのはかなり堅苦しい紹介文になってしまうけれど、アリストテレスの書物のなかでも屈指の面白さでしょう。「自然界は無生物から動物にいたるまでわずかずつ移り変わって行くので、この連続性のゆえに、両者の境界もはっきりしないし、両者の中間のものがそのどちらに属するのか分からなくなる」といった記述は、まさに存在の大いなる連鎖! という感じで、アリストテレスの連続性の原理を反映するかのようですが、この書物をアリストテレスの哲学のひとつとして読み解かなくとも「昔の人はいろんな動物の生態を見て、いろいろ考えたんだなあ」というトリビア的読み方でも充分面白いです。上巻では「ウナギは自然発生する!」という驚くべき記述が見られましたが、下巻ではどうやらアリストテレスの時代からウナギの養殖が行われていたらしいことが分かり、へぇ〜、とか思いました。今、ウナギのWikipediaの項目を読んでみたら、日本においては「山芋が変じて鰻になるのだという俗説があった」とのことですから、和洋を問わず、古来からウナギって謎だったんだなあ、とか感心しますね。下巻の動物の生態や気質についてまとめている部分は、さまざまな土地から集まってきた動物についての面白エピソードが集まっているので必見です。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...
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