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萩尾望都『マージナル』




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 しつこく萩尾望都強化週間なのだ(でも今度ので一旦終了)。この『マージナル』は冒頭からいきなり性的な同性間セックスの描写(しかも男娼宿)から始まって、かなりド肝を抜かれたけれども*1とても興味深く読む。この『マージナル』という作品は先日読んだ『レッド・スター』以上に、漫画版『風の谷のナウシカ』と似ている。どちらも終末後の地球を描いた作品であるし、さまざまな組織の思惑が絡み合い争いがおき、再度終末が訪れるかのように思われるのだが「希望」によって収束されていく……という流れはほとんど同じだ。おそらく両者の設定から要素を抽出して、組み替えることによって、同じ物語が出来上がってしまうのではないだろうか、と思えるぐらいに。たとえば『マージナル』の地球では、「カンパニー」と呼ばれる巨大組織が人為的に環境を管理している(そうでなければ、地球に人は住めない)ということが明らかにされるのだが、これも『ナウシカ』で「実はナウシカたちも穢れた環境に適応するように操作された人類である」と明らかにされる点と重なって読めてしまう。




 ただ、以上のように「ここが似ている」「あれは同じ」と指摘するのはさほど重要には思われない(こじつけようとすればいくらでも出来てしまうからだ)。ここでより重要に思われるのは「どうして彼らは地球に拘った作品を描いたのであろうか」という点である。漫画版『ナウシカ』の連載が始まったのは1982年*2、『マージナル』は1985年。それが当時のトレンドであったのだ、と言われればそれまでなのだが、私は「どうして彼らは、一旦破滅してどうにもならなくなったように見える地球を描き、そしてその地球に希望を与えるような物語を書いたのだろうか」という点が気になってしまった。とくに『マージナル』では地球への拘泥にも近いものが明示的に描かれる。カンパニーの人間が「あのような荒廃した惑星を維持することに費用を払うより、あんなものは捨て置いて、もっと生産的なものに投資すべきである」という言うとき、地球に住んでいるわけでもない人物がその意見に反抗する。このときの反抗には、いわば地球を魂のふるさとするようなナショナリズムが読み取れるのではないか(一方、『地球など捨ててしまえ』という意見は、大変合理的というか消費的な態度が読み取れる)。また、地球に住んでいる人々の側からも反抗がおこる。これもまたナショナリズムなのであろうが、こちらの側は実益的に動くナショナリストたちの姿を映し出す。彼らは合理主義者なので、必要があれば破壊活動もする。このような人々の姿は『ナウシカ』では見られないように思った――『ナウシカ』をものすごく暴力的にまとめてみると、自分の利権に拘泥し汚染された地球をさらに破滅へと向わせる人々を、一人の少女が融和へと向わせる(ミメーシスをもって)、というぐらいには言えるだろうか。これはやはりシンプルな図式である。





 『マージナル』はもっと事態が複雑化している。ただ様々な思いが錯綜しているおかげで、情報量が増え、中盤から終盤にかけてはかなり頑張らないと物語についていけない。ただ、そこに一種のリアリティを感じなくもない(一人の少女がノーパンで空を飛んだって融和が生まれるわけではないだろう)し、そこでのごちゃごちゃとした動きがとても面白く読めた。私がとても面白く感じたのは、この混沌とした情勢のなかに、ひとりネズという人物が巻き込まれてしまうところであった。彼はとくに主張とかもなく、まぁ穏便に物事が進めば良いなぁ、ぐらいにしか世界を捉えていないのだが、途中で地球を管理する側と管理される側の間に挟まれて右往左往するハメに陥る。タイトルの「マージナル」という言葉を社会学的に考えるならば、彼こそがもっとも「境界的」な人間、マージナル・マンということになるのではないか。もっとも、彼にはその境界に立ち、世界を観察する余裕など残されていないのだが。




*1:というのも萩尾望都という作家は、少年愛・同性愛であっても性的な含みがないのかと思っていたからなのだが。このプラトニックな点については松岡正剛も指摘している。松岡正剛の千夜千冊『ポーの一族』萩尾望都


*2:ちなみに『AKIRA』も1982年だ





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