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クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』




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 御歳100歳、知の巨人というかもはや仙人の域に達しているレヴィ=ストロースの世界的ベスト・セラーを読む。長らく学術書だとばかり思っていたのだが(『構造と力』みたいに学術書が売れるみたいなケースだと)、実際のところは、レヴィ=ストロースがアマゾンやインドにフィールドワークをしたときの記憶をエッセイに転写したような内容だった。翻訳が良いのか、文章が衒学的にさえ思えるほど晦渋で素晴らしく「これは確かに文学扱いされてもおかしくないな」と納得。出来事が時系列的に並んでいるわけではなく、我々の記憶がそうであるようにいくぶん錯綜した体裁を取るところも面白い。とくに冒頭の「出発」(ここでは旧大陸から新大陸への旅路などが綴られる)から、やっと南米にたどり着いたかと思うと、いつの間にか話がインドの話になっているところなど、ほとんどレヴィ=ストロースの記憶の密林へと迷い込んだような気分にさせられた*1。学術的には専門外でとくに得るものがないのだが、私はこういうタイプの小説が書きたいのではないか、などと思う。



恐らく彼だけは、文字というものの機能を理解していたのに違いない。そこで彼は私にメモ用紙を一冊要求し、彼と私は、一緒に仕事をするのに同じ道具を手にしていることになった。私が訊ねたことに口頭で答える代りに、私が彼の答えを読み取るべきだとでもいうように、彼は紙の上に曲がりくねった線を描いて見せた。彼自身、自分の作り出したこの喜劇に半ば填まっているという形だった。首長は、自分の手が一本の線を描き終わる度に、意味がそこから湧き出てくるはずだとでもいうように、不安そうに線を検分する。そして、いつも同じ失望が彼の表情に現れる。



 そういうわけで、私はレヴィ=ストロースが冒頭で批判している「探検家の話を聞きに講堂に集まる人」のような態度でこの本に接し、「インディオはこういう生活をしているのかぁ……ふーん……」、「マテ茶ってどういう味がするんだろうなぁ……」などと楽しんでいた。上に引用したのは、文字をもたない民族であるナンビクワラ族の首長が、レヴィ=ストロースが文字を書いているのを真似た、という出来事を綴る一節。こういうのが、あまりにも胸にキテしまう。そのような視点は、もちろん上から目線のもの(持てるものが持たざるものを見下ろして『無垢だ』と評価するような態度)には違いないが。




*1:著者自身は「あらかじめ企てた訳でもないのに、一種の知的『移動撮影(トラベリング)』が、私をブラジル中央部から南アジアに連れて行った」と書いている





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